苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

申命記の書かれた時期

 20世紀にもっとも急速に発達した人文系の学問は、オリエント考古学であると言われる。それによって、19世紀に自由主義陣営の聖書学で定説とされたある部分はくつがえされることになった。その一例をメモしておく。

34:14 彼らが、【主】の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された【主】の律法の書を発見した。
34:15 そのときすぐ、ヒルキヤは書記シャファンに対してこう言った。「私は【主】の宮で律法の書を見つけました。」ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、34:16 シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に報告して言った。「しもべにゆだねられたことは、すべてやらせております。
34:17 彼らは【主】の宮にあった金を箱からあけて、これを監督者たちの手に、工事をしている者たちの手に渡しました。」
34:18 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを朗読した。
           歴代誌Ⅱ34:14〜18節

 紀元前14−13世紀、神がモーセを通して与えた律法は、だんだんと王にも民に忘れ去られて行った。ユダ王国ヨシヤ王(在位640−609BC)は、偶像崇拝を排して真の神への礼拝の復興をこころざして、荒れ果てたエルサレム神殿を掃除させたところ、祭司ヒルキヤが律法の書を発見した。
 この出来事について18世紀のデ・ヴェッテ以来、ある学者たちは、これはフィクションであり、このとき「発見」されたのは、ヨシヤ王が宗教改革のために学者か誰かに書かせたものにすぎないという、いわば陰謀説を唱えてきた。彼らの仮説では、申命記は紀元前7世紀に書かれたことになる。
 しかし、この陰謀説はオリエント考古学が進歩し、各時代の契約文書の形式の変遷が研究されたことによって根拠薄弱であることが判明した。オリエント世界では宗主国支配下に置いた国(都市国家)に対して契約を与えていたが、その契約文書の形式が紀元前14−13世紀のヒッタイトもの(つまりモーセの時代のもの)と、紀元前千年期のアッシリヤのもの(つまりヨシヤ王の時代のもの)と異なっていることが明らかになった。たとえば、以下のような違いがある。
 紀元前14−13世紀のヒッタイト条約では「歴史的序文」が記されるのだが、紀元前千年紀のアッシリア条約では「歴史的序文」は記されない。
 紀元前14−13世紀のヒッタイト条約では「祝福と呪い」が記されるが、紀元前千年紀のアッシリア条約では「呪い」のみで対応する祝福が記されない。
 紀元前14−13世紀のヒッタイト条約では条約の要素の順序はほとんど一定しているが、紀元前千年紀のアッシリア条約では一定していない。
 申命記1章から32章を読んでみると、紀元前14−13世紀のヒッタイト条約の形式を踏んでいることがわかる。したがって、申命記モーセの時代に記されたと考えるのが理にかなっている。

 なお、申命記終章にモーセの死の記事が記されている点を、申命記モーセ著作性を否定する端的な証拠とするむきがある。
 宗主権条約においては、先の契約者が死ぬと、その事実と契約の継承者がそれを明示する必要があるので、継承者は前の契約者の死後すぐに、そのことを加筆する習慣があった。申命記末尾に、モーセの死が記されていることは、それを意味している。この記述によって、申命記全体、モーセ五書全体が宗主権条約的なものとして発効したと考えられる。