73:1神は正しい者にむかい、
心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
73:2しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、
わたしの歩みがすべるばかりであった。
73:3これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、
その高ぶる者をねたんだからである。(詩篇73篇)
この世の中、義人が苦しみ、悪者がわが世の春を謳歌するのはなぜなのか? 多くの人を苦しめてきたこのテオディセーの問いを歌うのが詩篇73篇。
聖書は広く深い。勧善懲悪の摂理の原則を一方で教えながら、もう一方で、それだけでは納得しがたいこの世にある義人の苦しみをも語っている。
私は時々思う。罪のしみひとつない聖なる神の御子が呪いの十字架にかけらるという出来事が起こった以上、なんでもあり得るのだ、と。
また、私たちが神の愛と神の義のあかしをさまざまなところで見出すことができるとしても、究極的にはキリストの十字架においてなのだ、と。