以前、S兄が貸してくださった一冊。宗教改革者マルティン・ルターに関する入門書である。平明な文章で書かれているが、筆者はルターの翻訳と研究に生涯をささげてこられた碩学であり、だからこそこれほど平明な書き方ができるのであろうとも思った。
聖書の博士であることに徹していたルターがどうして、結果的に、当時のローマ教会の宗教改革者となっていったのか、その時代状況がよくわかる。たとえば、こんなくだりがある。
ラテン語を理解できない民衆には、司祭の説教がドイツ語で行われるとき以外、聖書のことばが示す真理は。ごく限られた部分しか伝わっていなかったのである。
中世の礼拝堂の様子は、そうした状況の象徴ともいえる。たとえば、いま、ヨーロッパの古い教会を訪ねてみると、どこにも会衆が座る重い木の長椅子がある。教会に集まった人たちは、礼拝の時もそれ以外の時も、この椅子に座って祈りをささげる。・・・ところが、宗教改革以前の礼拝堂には、このような椅子は用意されていなかった。民衆はいわば「立ち見の観客」であり、礼拝やミサがおこなわれる間、ただ立って見ていればよかった。礼拝もミサもすべてラテン語。その時々に何が行われているのか、神父は何を唱えているのか、その意味を理解する必要はなかったのである。(pp5,6)
そういえば、何年か前、ロシア正教のニコライ聖堂を訪れたことがあったが、やはり会衆席というものがなかったと記憶する。古代教会では司祭がひとり座って説教する間、会衆は立っていたという文章を読んだこともある。今、プロテスタントは、逆だなあ。牧師ひとり「立たされて」いる。