苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ネメシェギ神父の話(その2)

 昨日の続きです。
 遠足の朝みたいに早く4時半に目が覚めたので、宗教改革記念日の説教原稿をみなおし9時半に車で出かけました。帰りの時刻が自由になるためと経済的理由です。
 昼食をすませて会場について椅子ならべを手伝っていたら、「屈強な男性!」と私に声がかかって神父を宿舎から車椅子でお連れすることになったんです。私を知る人は屈強とは程遠いことはご存じでしょうが、このごろは腹のまわりは屈強になったんですよ。それに、その場に、男は私ひとりでしたし、車椅子の扱いは慣れているのでお手伝いすることにしました。
 振り向いたら、妻のこずえはチャンス到来!という感じで、もうニッコニコ顔でした。・・・だって、神父と面識もない私たちは、講演を遠くからうかがって帰るのがふつうだろうけれど、何とかして盗撮でもいいから(?)、四十三年ぶりに会う宮村先生と神父のツーショットだけは撮ってあげたいなあくらいに思っていたからです。
 宿舎に参りますと、エレベーターから身長はゆうに180センチはあろうという神父が出ていらっしゃいました。杖をついていらっしゃいます。静かににこやかにお話をする方でした。宿舎に備え付けられた巨大な車椅子にお乗せして、大学構内をとおって会場にお連れしました。
 講演後、神父を宿舎に届けるまではという、うれしい責任上、ずっと車椅子や歩行ののお世話をすることにもなり、最後には、一緒に夕食をということになって、私たち夫婦と宮村先生ご夫妻は主催者の人たちと神父と大学裏の小さな中華料理屋で焼きそばを食べることにもなったんです。

ああ、講演はどうだったかというと、四つの福音書における主イエスのSplagnizomai(憐れむ、かわいそうに思う)の解説というふうな内容でした。豊かな学殖に裏打ちされた、穏健で建徳的な聖書解釈でした。語り口調は、実にやさしくて、なんというかフニャフニャしていて、ときおりユーモアが挿まれていて・・・う〜んどこかで聞いた口調だなと思ったら、そうそう、あの名人古今亭志ん生の口調に少し似ているようです。年を取られたからでしょうかと宮村先生に聴いたら、若い時からフニャフニャだったそうです。



<追記>
 宮村武夫牧師は、JCC(ジャパン・クリスチャン・カレッジ、現在のTCU)卒業後、米国のゴードン神学校とハーバードの神学部で学んだ後、帰国され牧会につかれたのですが、そのなかでなお学びの必要を感じて、上智大学神学部大学院でペトロ・ネメシェギ神父について学び修士論文を書かれました。その23年後、ネメシェギ先生は共産党政権下で荒廃した母国の教会と神学校再建のために帰国されました。宮村先生とネメシェギ先生は、卒業後43年間ずっと手紙の交流はあっても、お会いする機会はついにありませんでした。
 私の家内は、そういう事情を知って、私に「宮村先生はネメシェギ先生に会いたいでしょうねえ。先生をハンガリーにお連れしたらどう?」と提案しました。家内はこういう大胆なことを思いつく、すばらしい人なんです。それで、実は成田−ブタペスト便を調べたりもしていたのです。ただ宮村先生のおからだのことなど考えて、どうかなあと躊躇していました。
 そうしたら、ネメシェギ神父来日という報せがはいったのです。神様はすばらしいことをなさる!と驚きました。ハンガリーまで行くことを考えたら、信州から四谷なんて庭に出るようなものですからね。


<追記>
第二バチカン公会議(1962−65)以降、ローマ教会が、信徒使徒職を認めるようになり、信徒が聖書に近づくことができるようになって、教会全体が聖書的な方向にむかってきたのは、遅すぎたとはいえ素晴らしいことだと思います。それにさすがに人材の層が厚いので、その聖書学研究は急速に進んで、フランシスコ会訳聖書をはじめとして成果が世に現れているように見受けます。
 聖書にしたがって、もしこのさき、ローマ教会がマリア崇敬(崇拝とは区別するけれど)、無原罪懐胎・聖母被昇天という聖書に根拠がない教義から離れることができたら、これはすばらしいことと思います。
 今回のネメシェギ神父の話には、マリヤにかんすることは一切ありませんでしたし、神父の『神の恵みの神学』にもマリヤは主題的に取り上げられていません。どう考えていらっしゃるのか、うかがえるものならうかがってみたいと思ったりもします。