苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天地滅び失すとも

20:11また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 (黙示録20章11,12節)


 黙示録20章には、千年王国問題よりも、はるかに重大なことが記されています。20章11節です。裁き主の白い御座が出現すると、地も天もあとかたもなくなります。しかし、人間は復活させられてさばきの座の前には立たされるということです。ここは、創世記1章と対照して読んで理解できるところです。
 「国破れて山河あり」というふうに自然宗教的世界観では、天地は永遠だと思われていて、人間と人間の営みは悠久の天地にくらべればはかないうたかたのようなものだと思われています。しかし、聖書によれば、天地もまた神が「存在しなさい」とおっしゃるかぎり存在するものにすぎないのです。
しかも、人間は、天地が消えうせても、復活させられて永遠の神の前に責任ある存在として立たせられます。なぜでしょうか。人間は、神のかたちとして、神に人格的応答をすべき責任ある者であるからです。
 「国破れて山河あり」ではないのです。山河がなくなっても、そこに神はおられ、人はさばきのみ座の前に立たねばなりません。