苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

いわゆる千年王国と、もっと大事なこと

はじめに
 私は、千年王国がどうしたとか、携挙の時期がいつだとか、聖書が明白に述べていないことにはあまり関心がありません。また、こうした不明瞭なことをもって教会が分裂すべきだとも思いません。日本同盟教団が千年王国うんぬんということについて、信仰告白していないのはそのためです。
 私は、終末論については、もっと大事なことがあると思っています。
 とはいえ、一応、私なりの千年王国問題について現段階の理解を大雑把にメモすることも無意味ではないと思うので、ここに覚書として書いてみます。


1.「千年王国」と呼ばれるものの根拠とされる黙示録20章とそのアウトライン

 20:1またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。 20:2彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 20:3そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
 20:4また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 20:5(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 20:6この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
 20:7千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。 20:8そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。 20:9彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。 20:10そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
 20:11また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 20:13海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 20:15このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

アウトラインを書いてみます。
(1)千年間、龍(悪魔・サタン)が獄に縛られる。「第一の復活」を遂げた聖徒はキリストとともに千年間支配する。
(2)千年間が終るとサタンは獄から放たれて、サタンに惑わされた勢力が、聖徒たちの陣営と都を包囲するが、天の火によって彼らは滅ぼされサタンは火と硫黄の池に投じられる。そこには獣、にせ預言者もいる。
(3)キリストが再臨し、第二の復活があり、最後の審判を行なう。



2.聖書解釈の原則:明瞭な所から不明瞭な所を理解する

(1)黙示文学的表現
 黙示録は黙示文学という文体で書かれているので、書かれていることをそのまま読んではいけません。聖書記者は、そんなふうに読まれることを期待していないからです。黙示録は、そこに記された表象が何を表しているかを読み取る必要があります。たとえば、上掲の箇所では、龍・へびというのはあの爬虫類ではなくサタン・悪魔の表象であると黙示録記者自身が解説しています。
 「獣」というのは哺乳類のライオンやトラなどの獣ではなく、終わりの時代(キリストの初臨から再臨までの期間)に出現する、反キリスト教的な帝国あるいはその皇帝を表象していることが、ダニエル書7章と黙示録13章を照らし合わせて読めば明らかです。ダニエル書における表象の解き明かしを前提として、黙示録は書かれています。
 また、「千年」というのも、文字通りとることを聖書記者が要求しているとは思えません。むしろ、一定の長期間を表象していると読むほうが聖書記者の意図にかなっていると思われます。

(2)福音書・書簡
 ダニエル書7章によって黙示録13章を理解するように、明瞭な部分から不明瞭な部分を理解するという原則は、新約聖書の他の箇所における明瞭な啓示から、黙示録の不明瞭な箇所を理解するということにも適用されます。
 聖書全体の中で黙示録20章にしか出てこない「聖徒がキリストとともに千年の間、王として統治する」とか、「第一の復活」とか「第二の復活」とかいう表象は、いったい福音書や書簡が明瞭に述べている何をさしているのかという読み方をすべきであると思います。


3.二つの時代区分

 福音書における主イエスも、書簡におけるパウロも、「(福音の伝えられている)今の世」「次に来る世(永遠の御国)」という二分する言い方をしています。そして、その二つの時代の境界線は主の再臨と死人の復活としています。

「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:21)

「その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:30)

「イエスは彼らに言われた。『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。 20:36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。』」(ルカ20:34−36)

 ところが、千年王前再臨説によれば、「今の時代」「千年王国」「永遠の御国」という三区分することになってしまいます。これは福音書や書簡の「二つの時代」の枠組みと調和しません。むしろ、そういう読み方をすべきではなく、「今の時代」とは「サタンが縛られ、第一の復活を遂げた聖徒がキリストとともに治める時代」であり、「次の時代」とは「キリストが再臨し第二の復活を遂げた聖徒が生きる永遠の御国」と読むべきであろうと思います。「第一の復活」は書簡などにいわゆる新生をさす表象であると思います。
 この見解は、ふつう「無千年王国説」と呼ばれますが、ほんとうは千年王国が無いと言っているわけではなく、すでにキリストが初臨され、いまだキリストが再臨していない今の時代、聖徒はキリストとともに世界を福音によって治めているのだと言っているのです。今のこの時代に対して、私たちは聖書がいう正しい意味での王として責任を持っているのです。この世において、世捨て人のようにではなく、神の栄光を現すために、キリストを模範としてしもべとしての心がけをもつ王として生きるということです。
 こうした思想は、福音書、書簡にも啓示されています。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4−6)


そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:42−45)


柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(マタイ5:5)

4.艱難とか携挙とか

 艱難やいわゆる携挙の時期・前後関係についてはよくわからないし、少なくとも現在の私には詮索してもあまり意味があるとは思えません。艱難などというものは、場所や時代において、それぞれあるのです。たとえば、ローマ帝国の皇帝礼拝の時代、皇帝礼拝を拒否してライオンの餌食にされたキリスト者たち、江戸時代のキリスト者たちは、非常な艱難の時代を通り、殉教者もたくさん出ました。また、さまざまな時代と地域において、キリスト者だけでなくすべての人々は、大地震津波や戦争といったことによって、苦しみを経験してきました。
 それは「生みの苦しみ」であると主イエスがおっしゃっいました。陣痛が寄せては返す波のようにやってくるように、主の再臨と御国の完成に至るまでの艱難の波は、世界中にある教会の歴史の中で繰り返してやって来て、最後に大波となって、ついにオギャーとなるのでしょう。


5.もっと大事なこと

 千年王国とか携挙とか艱難時代などといったことよりも、神様の創造から終末に至る救いの大きな計画の枠組みのほうがはるかに大事なことですが、それが見失われているように思います。大きな枠組みとは、<歴史をはじめたお方が、その歴史に決着をつけ、御国を完成させる、それが再臨であり新天新地の到来である>という理解です。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:18−23)


  時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(エペソ1:10)

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3:13)


そして、黙示録21章、22章。