苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書の労働観・・・労働、その祝福と呪い

 一時期「やりがい」という言葉が流行しました。しかし、小泉・竹中改革以降労働者派遣法改正でワーキングプアが大量生産され、背に腹は代えられなくなって、最近は「やりがい」ということばがあまり聞かれなくなった。しかし、仕事にやりがいを求めることは間違ったことではない。仕事のやりがいとはなんなのだろうか。

1 ラクだから楽園?

 「エデンの園では、人は仕事などせず一日遊び暮らしていても、たわわに実った果物を食べて、ごろごろしていればよかった。エデンの園ラクだから楽園だった。労働なんかしなくてよいのだ。」というイメージを抱く人が多い。聖書以外の世界では、労働というのはできればやらないですませたいこととして扱われてきた。古代ギリシャでは労働は奴隷や家畜のすることとされた。パウロアテネのアレオパゴスを訪ねた時も、ギリシャ人たちは朝から晩まで哲学を論じ合っていた(使徒17:17-21)。ギリシャ語で労働にあたることばポノスは苦役という意味をあわせ持っている。ラテン語のラボール(英語レイバーの語源)、フランス語のトラヴァーユ、ドイツ語アルバイトにも、やはり苦役という意味が含まれている。ヨーロッパの知識階級は、今も労働を蔑視する向きがある。
 こうした異教的価値観はキリスト教理解にも影響をおよぼして、カトリック教会には色濃く聖俗二元論がある。聖なる務めは司祭職や修道士のみであって、その他の仕事は俗なるものとされている。

2 労働は祝福

 しかし、聖書によれば、労働は本来、堕落の結果もたらされた呪いではなく、堕落前に神が祝福として人間に与えたものである。労働も本来、聖なるものである。「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)伝道だけが神からの任務ではなく、汗を流し地を耕す労働もまた神からの任務なのである。
労働の内容は、地を「耕し」かつ「守る」ことである。「耕す」というのは、ヘブル語で、しもべ(エベド)と同根の語「アバド」が使われているから、言い換えると「土に仕えること」である。田畑の世話をするというニュアンスである。大地の世話をし、これを守ることが労働である。
 大規模単作の化学農法について考えたい。地平線までの畑に、飛行機で化学肥料のみ施し、同じ種をまき、殺虫剤を散布するといったやりかたの農業をすると、最初二年ほどは面白いほど取れるが、まもなく病気が発生する。病気を抑えるために土壌消毒をして土の中の微生物を殺してから種まきをするが、地力はどんどん失われる。しかも、地下水を大量にくみ上げての灌漑農法では、地下水に含まれる塩分によって土地は耕作不能になってしまっているという。こうして耕作放棄地がどんどん広がっている。米国やオーストラリアは土地がいくらでもあるから、次から次に土地を取り替えればよいということなのだろうが、こうした国々に対抗するために日本でも農業を大規模化すべきだと主張する人々がいる。しかし、日本では農地をひとたび殺してしまったら、もう代わりとなる農地などない。日本やヨーロッパでは、農地を耕しかつ守る農業でなければならない。
 土から作物を取ったら、その分は堆肥などで栄養分を返すなり、土を休ませるなりして、連作を避けて輪作体系を組むといった工夫が必要である。旧約聖書の律法には、七年ごとの「安息の年」が定められていた。このように土の世話をしてやることが、「土に仕え、かつ守れ」という神のみこころにかなう農法であろう。これは農業だけでなく、林業、漁業その他すべての産業において、心すべき態度である。
 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」(レビ25:2-7)


3 労働に呪いが

 アダムが神に背いたとき、本来、人に従順であった被造物・大地に呪われ、労働は苦役としての側面を持つようになった。神は仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(創世記3:17-19抜粋)
 古来、多くの民族において労働という言葉に苦しみという意味が含まれて来たのは理由のないことではない。今日、過労死の犠牲者がたくさんいるように、人は労働によってからだと心を壊してしまうことが、しばしばある。他人事ではない。また、創世記の言うとおり、作物よりも茨やあざみのほうが力が強いのである。
 そんな堕落後の世界の現状ではあるから労働は辛い。しかし、神の子であるキリスト者としては、この時代のなかで限界がある中にあっても、神を見上げて、一度にすべてではなく少しずつ、本来の祝福としての労働を回復していくことが尊い任務として与えられている。
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」(ローマ8:19)