苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の日の朝、ひさしぶりのこと


     (今朝のキュウリ。少し取れすぎ。水が不足気味。)


 こんなことはここ十年ほどなかったのですが、明け方になって、きょうのメッセージの聖書本文をふとんのなかで思いめぐらしていましたら、「そうじゃない。このことだろ。」と強く迫られて、起き上がって、現行の大幅書き直しとなりました。週報にも当日の説教要旨を書くものですから、これも書き直し。間に合いました。
 会堂管理者の娘のよみがえりと長血の女のいやしの記事のところなのですが、マルコ伝とマタイ伝で、同じ事実を描いていても、かなり記述の仕方が違うのです。最初に本文に取り組んだときからわかってはいたことなのですが、なお靄に包まれていたマタイの意図が、明け方になって靄が晴れてあきらかになりました。


マルコ5:22,23では、

「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

とあって、ヤイロの娘が死んだという報せは、このあと長血の女の癒しの後に届いているのです。これがもともとの時間的順序でしょう。


ところが、マタイ9:18では、会堂管理者は次のように言っているんです。

エスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」


 これは執筆者の意図のちがいと読むべきところでしょう。マルコのほうが場面を詳しく時間的順序で目撃的・ドラマチックに記して、登場人物たちの信仰のありようがよく描かれています。それに対して、マタイは、<主イエスは死に対する勝利者である>という主題をはっきりと打ち出しています。そこで、説教は当初「信仰とは」と予定していたのを、「復活の主」と改めました。