苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

おなかがすいているでしょう

マルコ5:21−43

2016年9月11日 苫小牧主日朝礼拝

1 会堂管理者ヤイロ・・・・プライドを捨てて

 主イエスはゲラサの地から、カペナウムに再び戻ってこられました。

5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

 ここでいう「向こう岸」というのはゲラサの地から見て、「向こう岸」つまりカペナウムのことです。戻ってくると、ガリラヤ地方の人々がまたたくさんイエス様の周りに集まります。・・・と、そこにヤイロという会堂管理者がやってきて、死にかけた娘を助けてくださいとイエス様の前にひれ伏したのです。

5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、 5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

 会堂というのは、あちらのことばでシナゴーグと言います。礼拝の施設です。神殿はエルサレムにのみありましたが、国中の人々がエルサレムに毎週出かけることができるわけはないですし、安息日に旅をすることは禁じられていましたから、全国各地にそれぞれの住んでいる場所から徒歩で出かけられる距離にたくさんのシナゴーグが設けられていたのです。
 そのシナゴーグの管理者ということです。イスラエル神政政治が行われている宗教的社会でしたから、会堂管理人の務めということも、社会的に尊敬される人物がこれに携わっていました。会堂管理人は、安息日ごとに行われる礼拝をプログラムし、その日に朗読されるべき聖書箇所、朗読者を定め、その解説をする教師を手配するといった務めを果たしていたようです。宗教的な見識や社会的な尊敬というものを、世間から受けていたのがヤイロという人でした。
 ところが、彼の娘が重い病気になりました。「私の小さい娘が」ということばに表現されているように、目に入れても痛くない娘です。この娘は12歳でした(5:42)。12歳というのは、神殿礼拝が許可されるようになるという一種の成人を迎える年でした。小さな頃から蝶よ花よと育ててきた、かわいい娘がようやく神殿礼拝を許される年齢になったとたんに、恐ろしい病に冒されて、生死の境目をさまよっているのです。父としては、これ以上に悲しく心引き裂かれる出来事はほかにありません。お祈りも一生懸命したでしょうし、医者から高い薬も処方してもらったでしょうが、何の効果もなくもはやこれまでという状況に立ち至っていたのです。
 そこで、ヤイロは、主イエスのもとに来てその足元にひれ伏してお願いしました。彼の宗教も彼の世間的な評判も財力も、このかわいい娘一人を助けるには何の役にも立ちません。彼はプライドを捨てました。自分の限界を認めて、ヤイロは主イエスの前にひれ伏したのです。人は自分でなんとかなると思っているうちは、主の前にひれふすことはできません。己の限界を認めて、主の前にひれ伏すということは、神の恵みを知り救われるために必須のことです。本日の第一のメッセージは、プライドを捨てることが主イエスを信じて救いを受けるために必須だということです。


2 長血の女

 主イエスはヤイロの求めに応じて女の子が臥せっている彼の屋敷に向かっていきますが、群衆がイエス様に押し迫っていてなかなか前に進むことができません。その群衆の中に頭から布をかぶり、人目を避けるようにしている、青白い顔をした女がおりました。

5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。  5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

彼女は十二年間、長血をわずらっていたとあります。長血というのは、婦人病のひとつで、慢性の生理不順のようなもので、始終血液が流れ出ているという状態だったようです。当然、貧血気味でいつもからだがだるくて痛くて力が出ません。この病気の癒しのために彼女はあちこちの医者にかかり散財しましたが、何の効果もなくてかえって悪くなる一方でした(26節)。「血はいのちである」と聖書にありますが、そのいのちが毎日毎日流れ出て、死が迫ってくることに怯えながら生活をしていました。しかも、この種の症状のある女性は宗教的に汚れているとみなされたのが当時のユダヤ社会でした。
そうした日々が十二年間も続いてきたのです。病気が病気ですから、結婚のことも諦めて、毎日痛い痛いとつぶやきながら、人からの差別に心痛めながら過ごさねばならない12年間でした。それはヤイロの娘が蝶よ花よともてはやされて過ごしたのと同じ年数であったのは、不思議な符合です。しかし、死に脅かされているという点では同じでした。
彼女は宗教的にけがれているとされていましたから、群衆の中に本来入っていくことはできませんが、それでもイエス様に近づきたかったので、顔を隠し、こっそりと後ろからイエス様にふれることにしました。触れて癒されたなら、逃げようと考えていました。ともかく彼女は、主イエスに触れたら治ると信じていたのです。果たして、彼女が主イエスにさわると彼女の中にイエスの不思議な力が伝わってきて癒されたのでした。

5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。 5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。


 すると、主イエスはそのことに「気づき振り返ってだれが自分の着物にさわったのか?」と問われるのです(30節)。 弟子たちは当惑します。

5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

 群衆はイエス様の着物に、それこそベタベタとさわりまくっていたのです。花道を下がっていくお相撲さんのからだにお客さんたちがべたべたさわるように、イエス様には百人も二百人もの人々がご利益を求めてさわりまくっていたのです。それなのに、「誰がわたしにさわったのか」なんて言われても・・・というのが弟子たちの当惑です。イエス様がおっしゃりたいのは、「信仰の手をもってわたしをさわったのは誰か?」ということでした。確かに百人も二百人もの人々がいるが、その中に信仰をもってさわっていた人が一人いるとおっしゃるのです。それは、たった一人、あの長血の女だけでした。イエス様にたくさんの人が関心をもち、イエス様に近づき、イエス様にさわりさえします。けれど、ただ信仰の手をもってイエス様にさわる人だけが、イエス様から力を受けることができるのです。

 さて、「5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。」とあります。イエス様が知らないわけはないのですが、本人が申し出るのを待っていらっしゃいます。すると、あの女は勇気を振り絞って「私です」と声を上げ、顔の覆いを取りました。周囲の彼女を知る人たちは、「わっ、長血の女だ」とちょっとした騒ぎになったでしょう。ですが、見ると、彼女がいつもの青白く暗い顔でなく、ピンク色のほほをした美しい表情をしているのです。

5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

 とありますが、彼女はこの十二年間あったつらいつらい身の上話をえんえんと説明しました。どこそこの医者にかかったけれどだめだった。あの高価な薬もだめだった。好きな人がいたけれど、結婚を諦めた。差別の目がつらかった・・・・などと。長血の女の長話です。主イエスが、彼女の癒しをおおっぴらなものとなさったのは、それが差別をともなう病気であったので公にそれが直ったことを示してやりたかったからでしょう。
 すると、主イエスは言われました。34節「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
 「あなたの信仰があなたを治した」というのは、その信仰に力があったという意味ではなく、信仰をもって主イエスに触れたので、主イエスから癒しの力をいただくことができたという意味です。自分の力も、医者も、お金も役に立たないことを認めて、イエス様にのみ信頼してすがりついたとき、イエス様から力が彼女に流れ出たのです。
 

「信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

 会堂管理者の場合、彼の持っていた社会的名誉・宗教的誇りといったプライドが剥ぎ取られてイエス様のもとにひれ伏しました。この長血の女から私たちが学ぶことは、主イエスに触れるならば治ると信じ、そして必死で主を求めた、その率直な信仰です。


3.おなかがすいているでしょう

 長血の女がえんえんと12年分の身の上話を「余すところなく」しているあいだ、会堂管理者ヤイロはやきもきしていました。「もう治ったんだから、そんな身の上話はどうでもいいから、早くイエス様切り上げて、うちのかわいい娘のところに来てください。死にそうなんですよ。」と叫びだしたいのを、懸命にこらえていました。紳士ですね。でもイエス様はあの女と話をやめません。イエス様にとっては名士のお嬢さんも、世に捨てられたような長血の女も同じです。
 ところが、

  5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

 ヤイロはその場に崩れ落ちへたり込んでしまいます。しかし、主イエスは慌てず騒がずおっしゃいます。

5:36「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 死を前にしても絶望するな!と主は命じます。人間にとって死は絶対のものとして映ります。死は恐怖の大王のようです。しかし、主はおっしゃるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
そして、ペテロとヤコブヨハネの三人だけつれて、ヤイロの屋敷に向かいます。屋敷では、すでに葬式の準備が始まって、家人たちの嘆きの声に満ちています。彼らに向かって主イエスは「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言いますが、誰もがイエスを嘲ります。死は絶対的なものであると誰もが思っていて、イエスが死に対してさえ主権をもっていらっしゃることが信じられません。
しかし、主イエスは娘が横になっている部屋に入ると、あの十二歳の娘の手をとります。

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)
5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

 無から、そのおことばによって万物を呼び出したお方が人としての姿をもってこられたのが主イエスです。その主イエスが、死からいのちを呼び出すことができるのは、当然といえば当然のことではありました。「眠っているのです」と主イエスがおっしゃったとおり、主イエスにとっては眠っている人を「朝だよ。」と起こすのも、死んでいる人を「タリタ・クミ」とよみがえらせるのも同じことなのです。実際、終わりの日、主は死者をすべてよみがえらせて、最後の審判を行われます。

 しかし、それ以上に、私はこのあまりにも偉大な奇跡の後に、主イエスが語られたことに、胸打たれます。

5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

 両親は涙を流して娘を抱き寄せ、先ほどまでイエスを嘲っていた周囲の人々が「奇跡だ!」「死者が生き返った!」と騒いでいるのですが、主イエスは「この子は、おなかがすいていますよ。何か食べさせて上げなさい。」とやさしくおっしゃったのです。いわゆる偉大な教祖様であれば、「見たか。わが力を。」と胸をそびやかすであろう場面でしょう。しかし、イエス様は、ただやさしく「この子、おなかがすいているよ。なにか食べさせてあげなさい。」とおっしゃるのです。このお方こそ、人となられた愛の神です。