苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

完璧男アブシャロムの欠け

14:25さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。 14:26アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。14:27アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。
                     サムエル記下14:25-27

 アブシャロム、父ダビデを王座から追い、そのいのちを脅かした息子の名の意味が「父は平和」「平和の父」であることはなんとも皮肉である。
 アブシャロムはダビデの息子たちのなかで、ピカイチの器だった。その人望は彼が招けばダビデの子たちがぞろぞろとその招待に応じたことからうかがえる。また、門のところに立って、国人たちの心を盗んだたくみさを見ても、彼の智謀や人好きする性格がうかがい知られる。後に彼が父ダビデに反旗を翻したとき、いっせいに多くの人々が王を捨てて彼についたことを見れば、アブシャロムが若き日のダビデのような器だったことがうかがえよう。格別、あの軍師アヒトフェルがアブシャロムに勝算ありと判断したことをみれば、彼がどれほどすぐれた器であったかがあきらかだ。
 しかも、アブシャロムは足の先から頭のてっぺんまで非の打ち所の無い美男子であり、豊かな髪は彼の自慢であった。彼はたいへん妹思いの男だった。それは彼が自分に生まれた美しい娘に、妹と同じタマルという名をつけたことからもうかがえる(27節)。アムノンはよりによって、このスーパー兄貴のいるタマルに手を出したのだから、ただですむわけがない。不良友だちに乗せられ自分の情欲に支配されたアムノンは、アブシャロムとは対照的に、どこまでも愚かな男だった。
 アブシャロムは自分の瞳のようにたいせつに思っていた妹を陵辱されたとき、激しく怒りを発することがなかった。彼は自分の感情を抑制しうる強い意志をもった男であった。この点では、この息子は父ダビデにまさっていた。
 だが、このスーパー・アブシャロムは王座を目前にして挫折して死ぬことになる。アブシャロムの弱点は、あまりにもすばらしい彼の資質だった。彼は彼の自尊心をくすぐる進言にのぼせ上がって判断を誤った(17章)。国中がほめそやした彼の自慢の美しく豊かな髪が、彼の死の直接の原因となったのは象徴的なことだった。
 

18:9さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。(中略) 18:14そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。 18:15ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。    (サムエル記下18:9-15)

 人望も智謀も行動力もその体格風貌も、父ダビデの資質を受け継いだ非の打ち所のなかったアブシャロム。彼と父ダビデの決定的なちがいはなんだったろう。ひとつは経験の差である。一介の羊飼いから身を起こし幾多の修羅場を通ってきた父と、宮廷で王子として生きてきた息子のちがい。そして、さらに決定的なちがいは、ダビデは主を畏れて、主が油そそがれた君主には決して触れようとしなかったことに対して、息子アブシャロムは主を畏れることを知らなかったという点である。

主を恐れることは知識のはじめである。(箴言1:7)