文語訳(明治訳)「 13:39ダビデ王アブサロムに逢んと思ひ煩らふ其はアムノンは死たるによりてダビデかれの事はあきらめたればなり」
口語訳「13:39王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである。」
新共同訳「39アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた。」
新改訳第三「 13:39 ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。」
新改訳2017「39**,アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。」
文語、口語、新共同はダビデはアムノンをあきらめて、アブサロムに会いたいと願っている。
新改訳第三、2017はダビデはアブサロムに会うのをやめるとなっている。で、新改訳第三はアムノンの件で悔やみ、2017は慰めを得た、ですか。
kalahということばはストロングの辞書だと、to be complete, at an end, finished, accomplished, or spentだから、それにしたがえば、新改訳第三、2017が正解です。実際、ダビデはアブサロムに会おうとしなかったわけですし。
nachamはストロングによれば、to be sorry, console oneselfだから、「悔やむ」も「慰めを得る」も両方ある。でも、文脈からすなおに読めば「悔やんだ」です。慰めなんか得てませんから。結局、新改訳第三版が正しいでしょう。