苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

実で見分けよ

2013年4月24日 小海キリスト教会 主日礼拝

7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』           (マタイ7:15−23)


1 羊のなりをした狼

 山上の説教のむすびの第二番目のたとえ話です。「偽預言者たちに気をつけよ」と主イエスは勧めます。目の前でイエス様がお話しなさっている相手は、はじめは弟子たちだったのですが(マタイ5:1「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。」)、話をしている間に、一般の群衆たちもイエス様を取り巻いていました。というのは7:28には 「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた」とあるからです。ですから、イエス様は弟子たちと群衆の両方に対して、「偽預言者に警戒しなさい」と教えているのです。
 預言者というのは神のことばを預かり教える人ですから、偽伝道者・偽牧師と言ってもよいのです。弟子たちはイエス様に教えられて人間を漁る教師としての訓練を受けているので、彼らに対しては、「君たち自身が偽預言者にならないように自戒しなければならないよ」と教えていらっしゃることになります。群衆には、偽教師に気をつけなさいと勧めているわけです。
 初代教会は内憂外患に直面しました。外患というのはユダヤ教会からの迫害であり、後にローマ帝国政府による迫害でした。そして内憂は、この偽預言者・偽教師の問題でした。せっかくイエス様を求めて集った信徒たちが、悪魔にかっさらわれてしまうのです。

「7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」

 偽預言者はイエス様の羊のような姿、つまり、いかにも立派なキリスト教の教師らしく装ってやってきます。彼は、日曜の礼拝にはちゃんと出席し、お話は特別に上手で、伝道には熱心で、祈りをさせれば美しいことばで立派にするのです。なんだかオーラを帯びています。羊のなりです。偽教師は義のしもべのふりをして来るし、サタンは光の天使のなりをしてくるのです。
 けれども、その正体は腹をすかせた狼です。羊の群れの中にひそかに入り込んで親しく交わり、みんなが油断したところでむしゃむしゃと羊たちを食べてしまうのです。教会の中に入り込んできて、最初はいかにも親切そうに振舞っているのですが、そのうち不満を抱いているような人のところに近寄って、親身に話を聞くようにして心を開かせ、その人の心に偽りのことばを吹き込んで、そのたましいを盗んでしまいます。正しい信仰の道からそれさせて、群れに分裂を引き起こし滅ぼしてしまうのです。警戒しなければなりません。


2 木は実によって見分ける

(1)木は実によって見分ける
 そこで肝心なことは、どのように偽預言者を識別するかです。イエス様は、実によって識別するのだとおっしゃいます。

7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 日本人は桜が好きでこのあたりもたくさん色んな桜が植えてあります。木の幹、その皮を見れば、桜だなとはわかりますが、その種類は判別できません。ヒンザクラかソメイヨシノヤマザクラかそれともヤエザクラかは区別できません。けれども、最初にヒガンザクラが濃いピンクの花が咲き、やがて淡いソメイヨシノが咲き、・・・と花が咲き実がなれば一目瞭然です。
  では、イエス様がおっしゃる「実」とは何のことでしょうか。みなさんは、私たちが偽預言者と本物の預言者を見分ける、その実とは何のことだと思われるでしょうか。ある人は「木は実によってわかるというのは、その伝道者・牧師がたくさんの人を救いに導いているかどうかということだと思います。」としきりに言っていました。はたしてそうでしょうか?もちろん多くの人をイエス様に導く情熱や賜物があるのはすばらしいことです。けれども、ただたくさんの人を集めるということならば、統一教会など異端でもしています。 またある人は言うでしょう。「木は実によってわかるというのは、その伝道者が、『病気をたちどころに治す』とかいう奇跡を行うことができたら、その人は主イエスの奇跡の力を受けていると言えます。」と。ほんとうでしょうか?
 イエス様ご自身は、「実」とはなんだとおっしゃっているでしょうか。

7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に
入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 イエス様がおっしゃるには、羊の皮をかぶった狼である偽預言者も、主イエスの名によって預言をします(22)。彼は多くの人をひきつける雄弁な名説教者であるかもしれません。いやきっとそうでしょう。彼は人気を博して多くの人が彼の説教に聞き入るのです。人々は、彼の甘いことばにだまされます。 また、イエス様がおっしゃるには、羊の皮をかぶった狼である偽預言者も、イエス様の名によって悪霊を追い出すことができます(2)。 さらに、偽預言者・偽教師も「イエス様の名によって奇跡をたくさん行う」ことができるのです(2)。偽預言者は主イエスの名によって語る名演説家であり、悪霊を追い出して苦しみから解放し、数々の奇跡さえも行うその伝道者は、たいへんな好評を博することは目に見えているでしょう。
 誤解をされないために申し上げますが、イエスの名によってみことばを語り、悪霊を追い出し、奇跡を行う人々がみな偽預言者だと言っているのではありません。使徒の働きを見れば、真実の伝道者であるペテロもパウロもこうした業を行いました。言いたいことは、たとえ主イエスの名によってなされるこれらの目を驚かせ、耳をそばたたせさせられるようなすばらしいこと、それらはイエス様がおっしゃる「良い実」ではないということです。これらのことを行って、多くの人々が彼のもとに押し寄せたからといって、その人がイエス様の真のしもべであるという証拠にはなりません。



(2)良い実とは


では、イエス様がおっしゃる「良い実」とは何のことでしょうか?21節と23節をごらんください。

「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」21節。
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

「よい実」とは消極的な言い方をすれば、「不法」を行わないことです。不法というのはアノミアンということばで、神の律法を無視した生活をすることです。「律法の行いによらず、ただ恵みによって救われたのだから、十戒など要りません。律法主義はよくないことです。恵みによって救われた以上、好き勝手に生きればよいのです」というのが偽預言者・偽牧師・偽伝道者です。イエス様が教えられた恵みによる救いとはそういうことではありません。イエス様は、この山上の説教のなかで、自分の罪を認めてイエス様を信じた弟子たちは、神様の恵みに感激してその恵みを知らない律法学者やパリサイ人たちよりも、はるかに積極的に神様のみこころにかなうように生きていくのだよと教えてくださったではありませんか。

「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(マタイ5:17−20)

「良い実」それは積極的な言い方をすれば、「天におられるイエス様の父のみこころを行うこと」です。天の父のみこころを行うとは、これまでイエス様が懇々と説いてこられた、山上の説教での勧めに代表されるような生き方のことにほかなりません。たとえば、・・・

「5:44b自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
「5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」
「6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」
「6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。」
「6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
そして、戒めの総まとめとして、主イエスは言われました。「7:12 何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

 律法によらず恵みによってすくわれたのだから、かえって、律法に十分にかなう、いや、律法が求める以上に天の父のみこころに十二分にかなう生き方をするのだというのが、イエス様のご命令です。旧約の律法の下にあっては「殺すな」と言われていましたが、恵みの下にある私たちは、むしろ「生かす」ことに励みます。律法の下では「偽証してはいけない」と言われていましたが、恵みの下にある私たちはむしろ「真実を語る」ことに励みます。旧約の律法の下にあっては「盗むな」と言われていましたが、恵みの下にある私たちは「貧しい人たちに施しをするために、自分の手で働きなさい」と言われているのです。1ミリオン行けと強いられたら2ミリオン喜び勇んで行く、そういう生き方が「よい実」です。つまり、「良い木」がむすぶ「良い実」というのは、人を驚かせるようないわゆる成果ではなくて、十戒を重んじつつ、それを自由な愛をもって行う誠実な生き方なのです。

むすび 終末論的な生き方

 そして、主は偽預言者に対する終りの日のさばきについて言われました。

「7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 今日のみことばからまずみことばを教える任務を与えられている私自身が襟を正さねばなりません。終わりの日のさばきに堪える、真実のみことばの教師であるように。雄弁であること、大伝道者になることよりもはるかに肝心なことは、真実なみことばの教師であるということです。
 そして、牧師だけでなく、私たち皆が心しなければならないのは、「7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」ということばです。「火」とは申すまでもなくゲヘナの消えることのない炎を意味しています。「終末論的な生き方」という表現があります。それは、主イエス様が今日再臨されたとしても、喜んでお迎えできる選択をして生きるということです。日々が、主イエスの再臨の日であり、聖なる法廷に今日、引っ張り出されても大丈夫という生き方を選び取るということです。日々この世の賞賛ではなく、神様の前で通用する生き方を選ぶことです。
 大事なことははでなこと、大きなことではなくて、誠実に神様に従って生きることなのです。そして、それがとてもむずかしいことです。