マタイ22:34−39
しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マルコ12:32−34
そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
序
サドカイ派が、主イエスに論破されたと聞いて、自分たちの番が来たということで、今度はパリサイ人たちが主イエスを試すためにやって来ました。
先にやってきたサドカイ派は合理主義という枠組み自体がまちがっていました。彼らは、神は世界を造ったあとは、この世界から手を引いてしまって歴史に介入しない。だからこの世界に理性で納得できること以外はなにもないとし、奇跡とか啓示とか復活とか天使はないと考えていました。
いっぽう、パリサイ派は霊の存在、天使の存在、復活も、最後の審判も信じている人々でした。理性の限界を認めていた点に関して言えば、イエス様の教えと同じ、私たちと同じ立場です。生ける神が、万物を創造し、そのあとも歴史を支配しておられ、時に歴史の中に介入して奇跡を起こされたこともあったのだと考えていたのです。では、何がパリサイ人たちの間違いだったのでしょうか?
1 旧約聖書の要約として
パリサイ派の律法の専門家nomikosがイエス様に質問しました。
22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
パリサイ派とひとくくりに言いますけれども、福音書を注意深く読んでまいりますと、パリサイ人にもピンからキリまでいたようで、この人物のように優れた律法の理解をしていた人から、偽善者の標本のような人までいたようです。ここではわざわざ「専門家」とありますから、パリサイ派の中の四番打者です。イエス手強しと見たのでしょう。
主イエスは、この質問に対して旧約聖書からふたつの命令を取り上げました。
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
この戒めは申命記6章5節のことばです。そして、主イエスはもう一つの戒めをレビ記19章18節から取り上げました。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
この二つの戒めが「律法と預言者」すなわち旧約聖書全体の要約です。旧約聖書にはもろもろのことが教えられ、命じられていますが、これら二つの愛の命令にかなうように解釈して生活に適用することが大事だと主イエスは教えられたのです。たとえば創世記の万物と人間の創造の記事を読んでも、究極的には神を愛し、隣人を愛せよと教えられています。アダムとエバの堕落の記事を読んでいても、究極的には神を愛し、隣人を愛すべしと教えられています。アブラハムの生涯をたどるときも、十戒を学ぶにしても、根本的に主が教えていることは、神を愛し、隣人を愛せよということなのです。
「神は愛である」とあるように、ご自身、愛であられる神が、神の似姿として造られた私たちに求めていらっしゃるのは、神と人とを愛することです。仮に愛なくして、正しそうなことをしても、神の前では無意味です。「愛がなければ、何の役にも立ちません。」
2 二つの愛の命令は不可分
さて、「最も大切な戒めは?」と問われて、イエス様は一つではなく、この二つをお答えになりました。これは何を意味するのでしょうか?神を愛することと、隣人を愛することとは、密接不可分であって、どちらを欠いてもだめという意味です。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という命令を抜きにして、ひたすら『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』ということを行おうとしたのが、主イエス様の当時のパリサイ人たちでした。彼らは自分たちこそ神を愛する者たちだと自負していました。
イエス様がある安息日に会堂でお話をなさっていると、そこに片手のなえた人がおりました。イエス様は話し終わると、彼に声をかけて会堂の中央に来させて、癒しました。神を愛し、隣人を愛するということの実践そのものです。ところがパリサイ人たちは、イエスの治療行為は仕事にあたるから安息日を破ったとして怒り、イエスをどのようにして暗殺しようかと相談をしたのです。聖なる安息日に、人殺しの相談をして、自分たちこそ聖なる安息日をけがしていることを自覚していないとは! 隣人愛を伴わないで神を愛するということが、観念的でいかに倒錯したことになるかを示しています。
弟子のヨハネは言いました。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(1ヨハネ4:20,21)
主の日の礼拝をたいせつにすることは、確かに神を愛する人の実践です。ですが、この日に礼拝堂につどい兄弟姉妹に会って近況を聞いたり話したり、また祈ってあげたりする交わりも大切なことです。また、主の日に礼拝することとともに、月曜から土曜日まで、家族を愛し、地域の人を愛し、仕事場の隣人を愛することも大事です。自分の隣人を愛することを通して、神をより具体的に愛するのです。
2 神を愛すること
また、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』というご命令を無視し、神に礼拝も感謝もささげることもなく、「ただ自分を愛するように隣人を愛すればよいのだ」というも間違いです。神様に礼拝と感謝をささげ、かつ、隣人を愛することが大事です。
主イエスは父から受けた、人類救済の使命を果たすために、三十歳で立ち上がりました。母マリヤも兄弟姉妹たちもイエスのことを理解せず連れ戻しに来たことがありました。「兄ちゃん頭がおかしくなった」とばかりに。そのとき、イエス様は「「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」とおっしゃって、主イエスに従ってきた人々を見て、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」とおっしゃいました。あの時、もしイエス様が、「ああ、神のみこころよりも母さん、兄弟たちに心配かけるのはいけないなあ。世間体も悪いし。」と考えて、神の使命を捨ててしまったなら、どうなったことでしょう。人類の救いは実現しませんでした。神を愛すること、神にしたがうこと無しに隣人を愛するというのは、むなしいことになるのです。
神のみこころがわからない人々にとって、私たちが神を愛し、その道を進むということは、ときに、不人情あるいは自分勝手のように映るものですが、それはやむをえないことです。長い目で見て神を愛する道を選ぶことは、あなたの隣人たちに祝福をもたらすことになります。
逆に、私たちが人にどう思われるだろうということばかり気にして、神を第一にする歩みをしないのは、隣人愛ではなく、単なる保身です。江戸時代に五人組制度という密告制度で、世間に対する恐怖を植え付けられた私たち日本人は、その点、弱いと思います。しかし、世間の人々の顔色を見て、世間に調子を合わせてばかりいたら、世界の光、地の塩として神様の清さも愛もこの世界にもたらすことはできません。塩は塩気があってこそ役に立ちます。クリスチャンは世間とちがうことを恐れはいけません。ちがって当たり前です。かつてシモン・ペテロが主イエスに叱られたように、私たちは主イエスから、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られないように、注意しなければなりません。
以上のように、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という命令と、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』とは密接不可分です。時として、この二つの命令は衝突するような状況がありますが、そのときには、よく祈り信仰の良心にしたがって行動することが必要です。
3 律法学者の反応・・・神の国から遠くない
イエス様のお答えを聞いて、律法学者はなんといったでしょうか?
12:32 「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
主イエスは、この律法学者の返答について、つぎのように評価なさいました。
ほめているような、ほめていないような、なんとも微妙な答えですねえ。あなたは神の国の玄関口の前まできている。でも、その中に入ってはいないよ、ということです。律法学者の返事は、たしかにイエス様を感心させるほどに立派な解釈でした。特にマルコ12章33節の、「どんな全焼のいけにえや供え物よりもずっとすぐれています。」という注釈はイエス様の教えと一致していました。イエス様に敵対したパリサイ派の人々の多くは、手を洗う儀式など人間の言い伝えにこだわるあまり、もっと肝心なあわれみ、誠実といったことを疎かにしていました。けれども、この人は特に「律法の専門家」と言われているだけあって、儀式律法よりもまず愛が本質であって、愛の律法の表現としてこそ儀式は意義深いものとなるのだということをわきまえています。それは、旧約の預言者イザヤ書などに書かれていることを、正しく理解していたことを示しています。さすがパリサイ派の四番打者です。
それでイエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と一面ほめたのです。けれども、「神の国から遠くない」というのはどういうことでしょう。「神の国」というのは神のご支配です。神の国に生きるとは、神の支配の下に生きることです。「神の国から遠くない」というのは、「神の国にあなたも入ったね」というのでなく、君は律法の理屈はよくわかっているんだけれどねえ・・と言ったところです。
なぜでしょうか?それは、この律法学者が、イエス様を「試みるために」この問いを発したにすぎないことに現れています。彼は、自分をイエス様よりも高い所において、イエスをテストしたのです。もしこの学者が、全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分自身を愛するように愛することに、自分の実存を懸けて従おうと努力した人ならば、彼は「自分はなんと愛のない、自己中心の人間であるか」を知って、挫折したでしょう。そうして、イエス様のところに「私を助けてください。どうすれば、神の国はいることができるのでしょう?」と尋ねにきたことでしょう。実際、ニコデモはそうでした。でも、この専門家は、イエスを試みるためにやって来たのです。意地悪な言い方をあえてするなら、彼の律法研究・律法解釈が学界で評価されたら、それで満足だったのかもしれません。しかし、本来、神は律法を人がこれを研究するために与えたのではありません。神は律法を従うべきものとして与えたのです。ですから、律法をどんなに正確に理解しても、全身全霊をもって神を愛し、自分の隣人を自分自身のように愛するために奮闘努力することがなければ、無意味です。
結び
律法を正しく理解するのは大事なことです。ですが、それ以上に大事なことは、正しく理解した律法を、いのちがけで生きようと努めることです。その時、私たちは己の限界を知り、御子イエスの御力に活かされて生きる、神の国の生を知るでしょう。
最後に、この箇所を読むなかで思い出した三浦綾子さんの『塩狩峠』の登場人物、永野信夫さん(実在の人は、長野信夫さん)のことをお話します。永野信夫さんはたいへんまじめな鉄道員でした。彼はあるとき、降りしきる雪の中で説教をしている伝道者に出会います。十字架にかかりながら敵をゆるす祈りをしたイエス・キリストの話を聞いて、永野青年は感動し、その夜、牧師に「わたしはイエスは神の御子であると信じます」と言います。すると牧師は、「あなたは、自分がイエス様を十字架にはりつけにしたことがわかりますか?」と問います。すると永野青年は、「とんでもない。私はまじめに生きてきました。」と答えるのです。牧師は「それでは、聖書を読んでそのなかの一つを徹底的に実行してごらんなさい。」と勧めました。永野青年は、聖書を読み「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばを実行することにしました。そのとき、隣人と考えたのは同僚の不良鉄道員三掘でした。彼のために永野青年は自分の出世も生活も擲って、一生懸命に尽すのです。ところが、ある日、三掘からこんなことばを投げつけられます。「永野、おまえは聖人君子面しておれにいつまでも付きまといやがって。迷惑なんだよ。」と。・・このとき、永野青年は自分のうちがわに三掘に対する怒りと憎しみがわきあがります。そうして、実は、自分は三掘を見下し、自分を神の立場においていた傲慢な人間であることに気づきました。そして、その自分のこの傲慢という罪が、イエス・キリストを十字架にはりつけにしたのだということを悟り、ついに彼は洗礼を受ける決心をしたのでした。こうして彼は、自ら赦された罪人として、神の国に生きる人となりました。