苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛国心という歴史現象

 愛国心とはなにか?歴史を振り返って、確認しておく必要があります。

1.近代人にとっては愛国心は常識とされ絶対化されていて、祖国のために他国人を殺害することは尊いとされています。しかし、聖書的観点からすれば、国民に命をささげることを要求し、時には他国人を殺害することを求める愛国心偶像崇拝の一種に思われます。

2.愛国心は、近代国民国家が成立して以降に生じた特異な歴史現象なのであって、時代を超えて普遍的価値あるものではありません。
a.ヨーロッパ中世においては、「国民」は存在しませんでした。民は各領主に属しており、王は領主たちのなかの一応リーダーでしたが、領主のひとりにすぎませんでした。王のために戦争をするのは王の直属兵と忠誠を誓った領主階級であって、王に属さない庶民は国に命をささげたり他国人を殺害する義務はなかったのです。 

b.近世(17,18世紀)になり、王の力が強くなり、領主の力がそがれて行くにつれ、民のうちに国王を意識し「国民」という意識が芽生えていきました。しかし、当時は国土と国民は王の財産であり、戦争と王の結婚によって国境線がたびたび移動しましたから、「昨日までフランス人だが、今日からイギリス人」ということがあったので、やはり国民という意識、愛国心が成立する条件がありませんでした。結婚すると、王妃は持参財産として国土と国民を持って来たのです。

c.近代。フランス革命(1789年)によって、国王はギロチンにかけられ、国土と国民の所有者は中央政府ということになりました。攻め寄せる反革命軍に対応するために、国民軍が編成されます。そして、国民教育が行われ、民は祖国la patirie・愛国心patriotismeは絶対と思い込むようになります。近代国民国家はみな同じような構造になっています。

d.この列島では明治維新前、日本国民はおらず、信州人、長州人・・・など領民がいただけであり、しかも、武士以外は戦争を仕事とはしていませんでした。しかし、維新において藩(大名)が廃止され、民は天皇中央政府と直結させられて、「国民」として仕立てられ、「愛国心」を植えつけられ、国民軍(皇軍)に組み入れられました。

・・・というわけで、愛国心というのは近代国民国家という、わずか200年(日本では150年)における歴史現象・相対的なものにすぎません。絶対者である神様を信じる私たちは、まず、絶対化されている国とか愛国心というものにかんして頭を冷やすことが大事だと思います。そうしないと、知らずして偶像崇拝に陥ってしまいます。偶像崇拝は、人を熱狂させて、最終的には悲惨をもたらします。

3.筆者にとって好ましい理想の国家は「鼓腹撃壌」の逸話
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-129.htm
 鼓腹撃壌の逸話によれば、国民に愛国心を持てなどと訴えるような政治家というのは二流、三流なのです。一流の政治家は、民が国の世話になっていることを忘れて楽しく生活していることをこそ喜ぶものです。

<同日追記>
 中世・近世においては、民は各領主に属していて、戦争は領主階級の仕事でしたから、民が総動員されて戦争が行われたわけではありません。その規模は限定されたものとなりました。また、国王があることを意志しても、それが民全体を動かすことはそう簡単なことではありませんでした。
 しかし、近代になって領主階級が排除され、「国民国家」が成立すると、民は中央政府に直結するので、国民皆兵が原則となり、戦争には国民が総動員される総力戦となってしまいます。また、国民国家では中央政府と国民が直結しているという構造なので、民の声が中央政府の動きに反映されやすい反面、中央政府に独裁者が立って煽動すると国民は容易に暴走する傾向があります。独裁者の常套手段は、直接選挙制です。民主主義国家体制というのは、容易に全体主義に傾きやすいことに注意する必要があります。