苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ほんとうの男らしさ


「人は言った『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」創世記三:十二

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。・・夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」エペソ書五:二五、ニ八

 「男らしく強くありなさい。すべてのことを愛をもって行ないなさい。」聖書によれば、男らしいとは強いこと。しかも、その強さは、乱暴さではなく、己に死んですべてのことを愛をもって行なう強さなのでした。しかし、現実はそう理想どおりにはいきません。最初の男、アダムが神様にそむいて善悪の知識の木の実を取って食べて以来、男はほんものの「男らしさ」を失ってしまいました。
最初に木の実を食べたのは妻で、次に夫も妻の誘惑に乗って食べました。神様は夫を責任者として、また妻の保護者・指導者として認めていらしたので、妻を詰問する前に、まず夫を問い詰めました。ところが、夫アダムは自分の妻に責任を転嫁しました。「この女が私にくれたからですよ」と。
子どもが非行に走ると、「おまえの育て方が悪いからだ。おれのせいじゃない。」と妻を非難する夫は自分が堕落した男アダムの子孫であることを暴露しているのです。神様は、父親を子育ての責任者として立てていらっしゃるのですから、それは責任転嫁というものです。「父たちよ。あなたがたも、子どもをいらだたせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ六:四)男らしさとは、このように取るべき責任を取ることです。夫が男らしく責任を取る人となるためには、奥さんも夫を家庭のリーダーとして敬い立てることが助けになります。
 男らしいとは強いことですが、その強さは、怒鳴ったりこぶしを挙げたりすることではなく、断固としてキリストの愛を行なう勇気、自分の欲や感情に打ち勝つ自制力です。キリストの愛とは、神にそむいて罪を犯し続けている私たちのために十字架にいのちを捨てた愛ですから。 
 あるクリスチャンの老夫婦がいました。ある日、奥さんが難病だとわかり、医者は夫婦を呼んでそのことを告知しました。医師から今後出てくるであろう症状をくわしく説明されながら、奥さんは『ああ、どうしよう。こんなに詳しく聞かされては、夫が私のことをわずらわしいと思うようになってしまうのではないかしら。』とたいへん心配をしました。ところが、医者の説明が終わり、病院を出て、夫は妻の手を引いて道を歩きながらぽつりと言いました。「いっしょに生きていこうね。」奥さんは、ほんとうに嬉しかったのです。神様が求めておられるほんとうの男らしさとは、こういうことなのでしょう。
(通信小海119号2003年9月)