苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン4月14日   私の魂の訴え

哀歌3:58
主よなんぢはわが靈魂の訴を助け伸べ わが生命を贖ひ給へり (文語訳)

主よ、あなたはわが訴えを取りあげて、
わたしの命をあがなわれました。(口語訳)

主よ。あなたは、
私のたましいの訴えを弁護して、
私のいのちを贖ってくださいました。(新改訳)

主よ、生死にかかわるこの争いを、わたしに代わって争い、命を贖ってください。(新共同訳)

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 疑問なのは新共同訳の「贖ってください」という表現。他の三つの訳は、「贖ひ給へり」「あがなわれました」「贖ってくださいました」とあるのに。贖うということばはガーアールということばで、ここはQal形という完了形だから、三つの訳がふつうだろう。私のわずかな知識では、「贖ってください」と願望に訳せるわけがわからない。
 「わが霊魂の訴え」、「私のたましいの訴え」が元の文章に近い。「生死にかかわるこの争い」は意味から自由に訳した感じで、このあたり、「新共同訳は読み物としてはいいけれど、釈義に使えない」と説教者の間では言われたりするゆえん。訳文を読んでも、新共同訳のばあい原文でどうなっているかが透けて見えてこず、説教者としては不安。・・・なんか今朝は柄にもなく翻訳の愚痴話になってしまった。
 主に遣わされて、反逆の町エルサレムに滅亡を告げ、同胞に捕らえられて非国民と罵られ苦しめられなければならない涙の預言者エレミヤ。彼の主に対する訴えはまさに魂の慟哭のような訴えだった。
 今の時代、主は、先の時代の事実の教科書の記述を改ざんしてまで「愛国心」を育てようとしている、この日本という国をどのように見ていらっしゃるのだろうか。エレミヤ書、また、この書を読むたび思わせられる。