H先生と話をしていると、以前から「贖罪的生き方」ということばをしばしば口にされる。最初に聞いたのは、確か、一昨年の初秋、房総半島に向かうバスの中、賀川豊彦の話をしていたときだった。
「贖罪的な生き方」。わかるような、わからないことばなので、先日、掛川で会ったとき「それは具体的にはどういうことなんだろう?」と質問してみた。そうしたら、「わかりやすくいえば、他人が落としたごみを、自分には関係ないとは言わないで、自ら進んで拾う、そういう生き方ですよ。」と教えられた。
なるほど。キリストの御足の跡をたどるなどと美しく表現されるけれど、それは具体的に一言でいえば、他人が落としたゴミを進んで拾うそういう生き方だといえるのだろう。主イエスは私たちの落とした罪というゴミを一身に引き受けてくださったのだから。・・・そういえば、とくにこの二年間、総主事のH先生には、何もわからん(一応上司の)常任書記の私が落としたゴミをたくさん拾ってもらったっけ。確かになにも文句もいわずに拾ってくださった。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」1ペテロ2:22-24