苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

光は闇の中に輝いている

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝た(katalambano)なかった。(ヨハネ1章5節)

1.この節にはいろいろなことを思い浮かべさせられますが、一義的には、これはイエス様のご生涯を表していることばです。二千年前、永遠のロゴス、神の御子であるイエス様が人となってイスラエルベツレヘムにお生まれになったとき、そこは暗闇に閉ざされたありさまでした。ローマ帝国の傀儡政権であるヘロデ大王が恐怖政治を行っていました。残忍な大王は、新しい王が生まれたという報せを聞くと、御子イエスを亡き者にするために、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男児を皆殺しにさせたのです。
 長じて、イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、暗闇に光を放つように宣言なさいました。当時のユダヤ人の社会はきわめて宗教的な社会でした。けれども、その宗教の指導者たちは、イエス様のことばを聞いて、それを理解することができませんでした。「闇はこれに打ち勝たなかった」の「打ち勝つ」と訳されることばカタランバノーというのは、「理解しなかった」とも訳される面白いことばで、1950年の大正訳聖書は、「光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」と訳しています。
 イエス様が来られた当時の社会には、貧困のなかで女郎に身を落とした女たちや、心ならずも取税人に身を落とした男たちがいました。律法の先生たちは彼らを軽蔑しました。しかし、イエス様は彼らもまた失われた羊たちであって、ご自分は羊飼いとして彼らをも救うために来られたとされました。「神の愛は、君たちが罪人と呼ぶ彼らにも注がれているんだ」と言われました。
 しかし、イエス様のもたらした神の愛の真理を、ほとんどの祭司・律法学者たちは理解することができませんでした。「闇は光を理解できなかった」のです。そして、彼らはイエスを最後には十字架で殺しましたが、主イエスは復活されたので、「闇は光に打ち勝たなかった」のです。


2.また、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」ということばは、主イエスの生涯を表すとともに、主イエスにしたがって世界の光とされた私たちの人生、また私たちが生かされているこの世界のありさまをも表すことばと理解することができます。
 カタランバノーを「理解する」と訳すならば、「闇はこれを理解しなかった」となります。私たちに与えられたイエス様による救い、また福音の真理をなかなか人々が理解してくれないという状況を意味するということでしょう。
 また、「打ち勝たない」と訳すとどうでしょうか。イエス様を受け入れたら、私たちの人生の様々の問題が直ちに解決するわけではありません。「光は闇のなかに輝いている。」のです。闇を罪と考えるならば、私たちはイエス様を信じて、イエス様の十字架における罪の贖いの故に、罪を赦していただきました。けれども、では洗礼を受けたら罪の性質はきれいさっぱり拭い去られたかというと、そうではないことを私たちは知っています。確かに新しい人生が始まったことは実感しますが、罪の古い性質がまとわりついていて、がっかりするのです。なお闇があるのです。けれども、約束があります。「闇はこれに打ち勝たなかった。」と。私たちがこの世の使命を成し遂げたとき、主イエスは私たちを迎えに来てくださいます。そのときには、私たちは闇から完全に光の中に移していただくのです。


3.また、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」というのは、今、私たちが住んでいる日本の世相をも表すように思います。政府は、先週、国民の8割が反対あるいは慎重審議を求めているにもかかわらず、平成の治安維持法とも、軍機法とも呼ばれる特別秘密保護法を強行に通してしまいました。これをセットになっているのは、NSC(国家安全保障会議)昔でいう大本営の設置、共謀罪を検討するという発案、集団的自衛権行使、そして、武器輸出三原則緩和あるいは撤廃です。これらはすべて憲法第九条に反しています。政府は異常な勢いで暴走しています。闇は濃くなっています。
 しかし、「光は闇の中に輝いている」のです。どんなに闇が深くなっても、光はそこに輝き続けるのです。光とは主イエスであり、そして私たち主イエスにしたがうキリスト者です。しかも、「闇は光に打ち勝たなかった」とあります。ですから、私たちは目を覚まして、この闇の時代のなかで、しっかりと、神様の愛の光を、平和の福音をあかしする灯台としての役割をはたして参りたいと思います。キリストの愛の福音を証して生きてまいりたいと思います。