苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ジャーナリズムと民主主義

 ジャーナリズムが、国民の目となり耳となり唇になって政官財界を監視していることは、民主主義が正常に機能するための条件である。だが、どうも、日本にはいまだ民主主義が存在しないらしい。
 そのことに気づき始めたのは一昨年の小沢一郎氏をたたくマスコミの異常さを感じたときからである。小沢氏が記者会見を記者クラブ所属の大新聞・TVの枠を取っ払って行うと言ったからであるらしい。また、その後だったろうか、官房機密費問題を通じて、日本の新聞・テレビとそれに登場する評論家たちは、政府に買収されていることを知った。有名な評論家で官房機密費を受け取っていないのは、たった一人だという。腐りきっている。
 そうして、決定的に日本のマスコミはジャーナリズムではないと知ったのは、昨年311以降の日本における原発にかんする報道による。福島第一原発が破綻し、これが爆発を起こしたときから、現場を映すカメラが入らなくなってしまった。また、放射性物質の雲(放射能雲)がどちらに流れ拡がって行くかを判断するためにもっとも重要な風向についての気象庁原発周辺のデータも公表されなくなってしまった。
 新聞は相変わらず発行されてはいたけれども、いわゆる全国紙(大新聞)は、ただ政府発表を伝えるだけの官報にすぎないものであった。テレビには、東大・京大・東工大原発村の専門家たちや、いいかげんな評論家たちが登場して、「大丈夫です」ということばを繰り返していた。
 かつてであれば、国民は官報化した新聞やTVしか事実を知る方法がなかったのであるが、今はインターネットを通じてさまざまな海外の情報を得ることができ、原発の実情を事実を伝える少数の専門家たちがいるので、政府発表がいかにウソに満ちたものであるかということを知ることになった。海外の報道機関の記者たちは、4月下旬の政府・東電の記者会見にはだれひとり出席しなくなってしまった。そこでは、がせねたをつかまされるだけであると彼らは認識したからである。彼らは、原子力資料情報室の研究者たちの記者会見に福島第一の真相を聞きに出かけていた。
 そんな状況のなかで、原発の実情をきちんと伝えていると思われた新聞は東京新聞中日新聞東京版)のみであった。朝日、読売、産経はまるでだめ。毎日はまともになろうともがいている様子がわかる。問題の根本は、上杉隆氏が指摘されるように、「記者クラブ制度」なのだろう。官庁の政府発表を聞いて、それにただ少々味付けをするだけの大新聞・TVは記者クラブに属していて、フリーのジャーナリストたちはこのクラブから締め出されている。小沢氏が大新聞・マスコミから徹底的にたたかれるのは、彼が記者クラブを廃止しようとしたからだというのは、たしかに理由のひとつなのだろう。
 ジャーナリズムとは単に新聞やテレビやラジオの報道ではなく、政官財界という権力機構についてのチェック機関である。記者クラブ制度が廃止されて、まともなジャーナリズムが機能して、民主主義がこの国にも実現することを望みたい。