苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XX アダムからノアへの系図

 初めて聖書を手に取る人の多くは新約聖書を手に取るでしょう。さて、どんなことが書いてあるのか?とページを開いたとたん、高いハードルがあります。「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」です。このハードルでひっかかったら、もう前に進めません。聖書にはいくつもの系図があって、一見、名前がずらずら並んでいるだけで無味乾燥です。けれども、ずらずら並ぶの名の中にちょっとした特徴があることが多いので、それに着目すれば、味わい深いメッセージが隠されていることがあります。
 系図のメッセージの読み取り方として、とりあえず三点挙げておこうと思います。一つは始まりから終わりにいたる全体の構造を見ることです。その全体構造が告げようとしているメッセージがあるはずです。二つ目は「大切なことは繰り返される」という原則。これは童謡説教で宮村先生もおっしゃっていましたね。そしてもう一つはずらずら同じようなことが書かれている中で例外的なことに着目することです。大雑把にいうと、全体と部分の両方に注目すること、あるいは一貫するものと、例外的なものの両方に注目することです。
 創世記五章の系図は私たちに何を告げているのでしょうか。(なお、この項の釈義の多くは昔読んだ榊原康夫師の本の影響を受けていると思いますが、師の意に沿わないところもいくつかあると思います。)

1 アダム→セツ→ノア

 この洪水前の世代を数えてみると、アダムからノアまで、ちょうど十世代です。他方、十一章の洪水後のセムからアブラムまでの系図を数えると、やはりこちらもぴったり十世代で、対称を成していることがわかります。古代オリエント系図記述法として、ところどころ抜いて七代とか十代とか十四代できれいに整理をして書く習慣がありましたから、ここでもそのような記述法がとられているのでしょう。マタイ福音書のイエス系図においても、十四代十四代十四代と整理されて、幾人かの名が省略されていることが旧約聖書系図と照合するとわかります。
 ただ創世記五章の場合は「Aは何年生きて、Bを生み、そして何年生きた。」という書き方なので、人名が省かれたとは考えにくい気がして、友人の聖書学者に質問しました。すると、「Aは何年生きて、Bの先祖にあたる者を生み、何年生きた。」という意味で「Aは何年生きて、Bを生み、そして何年生きた。」と記述されることもあるそうです。ですから、五章の系図に記された寿命の年数を足し算して年表を作るのはあまり意味のあることとは思えません。
 さて、創世記五章の系図が告げようとしていることの一つは、その始まりと終わりを見て見れば、あきらかにノアの来歴です。ですから、この系図にはすべての人が記録されているわけでなく、アダムからノアにつながっていく人名だけが記されています。前章には、カイン族が「力の一族」(蚊ではなく「ちから」)として繁栄して行ったのに対し、セツ族は「祈りの一族」として歩んだということが記されていました。そして、この敬虔な祈りのセツの子孫にノアが出現したということを系図は告げています。


2 罪と死

 さて、創世記五章の系図を読んで、たいていの人が不思議に思うのは、一人一人の寿命がたいへん長いことでしょう。アダムは九百三十年、セツは九百十二年、エノシュは九百五年といった具合で、平均寿命はおおよそ九百年ほどです。これは個人の寿命ではなく部族とか王朝の長さではないか、などという解釈をするむきもあるようですが、何百何十何年という厳密さからみて無理でしょうね。ふつうに読めば、これはやはり個人の寿命です。当時は地球の自転の速度が今よりも何倍も速かったのではないかという説も聞いたたことがあります。あるいは、春夏秋冬で今の一年を四年と計算する暦があったのではないかという仮説もあります・・・この仮説は筆者が今思いついただけですけれど。まあ、諸説を見ると人間というのは現在の常識にしばられてものを考える性質をもっているのだなあと思わせられます。そういう常識に縛られない創造科学の立場の人々が主張される大胆な仮説は、大洪水の前は地球環境が大洪水の後と大きく異なって有害な宇宙線が地上に降り注いでいなかったので、寿命が長かったのだということです。あるいは、そうだったのかもしれませんが、聖書が明言しているわけではないので、よくわかりません。
 聖書記者自身も五章の人々の寿命は今日からみれば異常な長さであるとはっきり認識しています。ですから、神が「人の齢は、百二十年にしよう」(6:3)とおっしゃったことと、その後、実際に、人の寿命は今日程度に短くなっていったことを11章のノアからアブラハムにいたる系図のなかに記述しています。このことを見れば、やはり五章の系図を部族や王朝の寿命だとか地球の自転が速かったとかいって合理化しようとするのは無理な解釈だと言わざるをえません。
 ところで寿命がこんなに長かったというのは、「こんなに長生きして飽きなかったのかなあ」というのん気な話ではなく、もっと深刻な問題がともなっていたようです。神が「人の齢は、百二十年にしよう」と決断された背景には、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(6:5)ということがあったからです。どうやら原罪を抱えた人がいたずらに長生きすると、罪が罪を生んで悲惨なことになるようです。また、いたずらに長生きすると罪を犯すことに慣れてしまうということもあるのでしょうか。
 この系図を音読してみると、あることばが不気味に繰り返されていることに気付くでしょう。「アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」「セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。」「エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。」・・・「こうして彼は死んだ」という表現です。当時の寿命は、現在の平均と比べれば長いのですが、それでも彼らはことごとく死にました。「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)とおっしゃった主のことばは、ここに確かに成就しました。アダムだけでなく、アダムから出た子孫すべてに死が入ってきたのです。まことに罪から来る報酬は死です。

3 エノクは神とともに歩んだ

 さて、この系図のずらずらした流れのなかで、例外的な人物がいます。それは平均寿命九百歳という記録の中に、ただひとり三百六十五年で世を去った人がいたことです。
「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:21−24)
 ある日、エノクはいなくなりました。エノクがいなくなったとき、人々はエノクの行方を探したことでしょう。しかし、やがて彼らに神から啓示が与えられ、神がエノクを取り上げられたのだということがわかったということでしょう。エノクは死を見ることのないままに、神のもとに連れ去られたのです。
 地上に残された人々がエノクの思い出を語り合ううち、「エノクの生涯をひとことで表現するどうだろう?」ということになったのでしょう。すると異口同音に「『彼は神とともに歩んだ』という一語に尽きるじゃないか。」ということになったのでしょう。このわずか四節の中に、「エノクは神とともに歩んだ」というフレーズが二度も出てきます。筆者は考えさせられます。自分が突然いなくなったら、人は水草修治は何とともに歩んだというだろう?「水草修治はダジャレとともに歩んだ」じゃいやだな。
 今もしあなたが突然世を去って記念会が開かれたなら、人は「彼は何とともに歩んだ」と言うのでしょうか?「彼はカネとともに歩んだ」「彼女は欲とともに歩んだ」などという惨めな人生ではなく、「彼は、彼女は神とともに歩んだ」と要約されるような人生を歩むことができたら、と願うことです。
 もっとも、よく読むとエノクは必ずしも最初から「神とともに歩んだ」というわけではなかったようです。彼の人生の転機は六十五歳のとき、息子の誕生の日に訪れました「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」とありますから。息子の誕生に際して、なにがあったのかは分かりません。あるいは妻が難産で、「神様、この子と妻のいのちを助けてください」と生まれて初めて心注ぎだして祈って、わが子が生まれたのかもしれないと想像したりしますが、事情はよくわかりません。ただとにかく、この息子の誕生の日を境に、エノクは神とともに歩むようになったのです。
 ある日、エノクさんが散歩をしていました。いつものように神様といっしょです。神様とともに語らいながら行く道はなんと、心楽しいことでしょうか。時がたつのも忘れて、気がつくともう夕日が西の山の端に近づいています。神様がおっしゃいました。「エノク。今日はずいぶん遠くまで歩いてしまった。少し早いが、うちに来ますか。」エノクは「そうですねえ。そうさせていただきましょう。」エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなったのでした。
 聖書全体を見渡してエノクの出来事に似たことといえば、エリヤが死を見ずに天に引き上げられたことと、主イエスの再臨が間近になったときに起こる携挙です。エノクの出来事は、携挙の予型であると理解されるべきだと、たしかH.シーセンは言っていました。だとすれば、私たちにとってエノクの出来事は決してはるか昔のあまり関係のない出来事ではなく、私たち自身の人生にも訪れる出来事でもありうるのです。主は、その日、ご自分の民をご自分のもとに携え挙げられます。それは明日かもしれません。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:41,42)