苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・ⅩⅢ 結婚:祝福と限界

1 「生めよふえよ」

 結婚の目的とはなんでしょうか。一つは、創世記第一章で神が最初の夫婦を祝福して「生めよ。ふえよ。」と言われたように子孫を増やすことです。それは、「地を従え」「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」するため、世界に人が広がっていく必要があったからです。神は、人類が神のしもべとして、被造物世界を治めて神の栄光をあらわす文化形成をすることを望まれました。
 神が祝福してふえよとおっしゃったのですから、結婚して子どもを授かることができたならば、それは確かにおめでたいことです。しかし、もし子どもを得ることだけが結婚の主要な目的であり、子どもを得ることによって世界を治めることがさらに上位の目的であるならば、子どもを得られなかった結婚は失敗であるということになってしまいます。また、単に被造物管理が目的の「増産」ならば、なんだか戦時中に兵隊をふやすために「生めよ。増えよ。」と奨励した軍国政府とあまり変わりません。聖書はそんなことを教えているのでしょうか。

2 「ふさわしい助け手」

 創世記第二章には、もっと詳しく結婚についての定めと教えが記されています。
神はアダムにエデンの園を「耕し、守る」という任務をお与えになった後、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)と、アダムに妻を与えることになさいました。この文脈からは、第一章と同じように、「地を耕し守る」ために、助け手として妻をくださったのだと読みとれるでしょう。
しかし、アダムにとって妻が助け手であるとは、単に労働力としての助け手であることを意味しているのではありません。神は最初から、アダムのもとに女性を連れて来られませんでした。野の獣や空の鳥を連れてこられて、アダムに名前をつけさせました。アダムは寝てばかりいるこだからネコとか、ネコを追っかけてどっかに行っちまったのでイヌとか、やたらと草をうまそうに食べているからウマとか、軽そうに見えたのでひょいと持ったら意外とずっしり重いのでヘビとか名前を付けて楽しみながらも、「ああ。ぼくにはふさわしい助け手がいないなあ。」と寂しい思いをさせられたのでしょうね。それは、アダムに、「ふさわしい助け手」とはなんであるかを体験的に教えるためだったのでしょう。牛や馬ならば労働力としての「助け手」にはなりえたのですが、それらは決して「ふさわしい助け手」ではありませんでした。
 「ふさわしい」と訳されるのは、「差し向かいの」という意味のことばネゲドです。ですから、「ふさわしい助け手」とは、差し向かいの助け手、人格的交流のある助け手、語り合う助け手、心通う助け手、ともに神の前にひざまずいて祈ることができる助け手です。
 たしかに結婚には、前述のように子孫を増やして、世界管理をする目的もありました。また堕落後の男女に対しては、「不品行を避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女も自分の夫を持ちなさい。」(1コリント7:2)と、結婚の目的のひとつは不品行の防止だと、みもふたもない現実的な勧めもしています。しかし、本来的な結婚の目的は、夫婦が神の前に祈りつつ愛の共同体を築きつつ、神のしもべとして被造物を管理するという任務を果たすためでした。
 神は、その「ふさわしい助け手」を造るにあたって、アダムのあばら骨を利用なさいました。夫婦がひとつであることをよくわからせるためです。しかも、その時、神はアダムに全身麻酔をかけて深い眠りに陥れてから、あばら骨を取って女性を完成させてからアダムのもとにつれてこられました。「神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」(創世記2:22,23)とある通りです。
なぜ全身麻酔であって部分麻酔でなかったのでしょう。もし部分麻酔で、女性が造られるプロセスをアダムが見ていたら、なんだかアダムのイメージとして妻はロボットかサイボーグのようなものとなってしまう危険があったからでしょう。それを避けるために、神は女性を造られる間、アダムに深い眠りをお与えになって、二人が人格的出会いができるように配慮なさいました。
 アダムは妻に出会ったとき、感激して史上初のなんとも無骨なラブソングを歌いました。
  「これこそ、今や、私の骨からの骨、
  私の肉からの肉。
  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから。」
          (創世記2:23)

3 結婚の究極の目的とその限界

 神が最初の夫婦の出会いが人格的な出会いであるようにと、これほどまで細やかな配慮をなさったことには、理由があります。それは、結婚というものにこめられた「花婿キリストと花嫁教会の影」という奥義のゆえでした。新約聖書は次のようにいいます。 「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:31,32)。
 あるとき、主イエスサドカイ派がしかけてきた論争のなかで、「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マルコ12:25)とおっしゃいました。復活の日、新天新地では、結婚という制度はなくなってしまうのです。ですから、「この世では結ばれなかったけれど、あの世で・・・」などというのはかなわぬ望みです。真の神にそむいた人間はなんでも偶像化するので、のぼせ上がって男女の愛、夫婦愛というものを偶像化する場合があります。典型的なのは、あの掟破り歌詞のシャンソン「愛の賛歌」ですね。日本にも「世界はふたりのために」というのがありましたが、それどころではありません。

青空が私たちの上に落ちてくるかもしれない
大地が崩れ去るかもしれない
そんなことはどうでもいいの、もしあなたが私を愛してくれれば
世の中のことなんてどうでもいい
私の朝が愛で満たされる限り
私の体があなたの手の下でふるえる限り
世間の大問題もどうでもいいの
ねえあなた あなたが私を愛していてくれるのですもの


私は世界の果てまで行ってもいい
髪を金髪に染めてもいい
あなたがそうしろと言うのなら
月を奪(と)りに行ってもいい
大金を盗みに行ってもいい
もしあなたがそうしろと言うなら
祖国を売ってもいい
友達を捨ててもいい
愚かだと笑われていい
私は何でもするわ
あなたがそうしろと言うのなら


いつの日か人生が私からあなたを引き離し
あなたが死んで 私から遠くへ行ってしまっても
そんなことはどうでもいいの あなたが私を愛してくれれば
だってこの私も死ぬから
無限に広がる青空のなかで
私たちのために永遠が待っている
天国には何の問題もない
ねえあなた 私たちは愛し合っているのよね
神は愛し合っている人間を結び合わせてくれる
(野内良三訳 『レトリックと認識』(日本放送出版協会2000))

けれども、冷や水を浴びせるようですが、御国では神はふたりを結び合わせてはくださいません。男女の愛、夫婦愛もまたその務めが終わったら消え去るものなのです。完全なものが現れたら、不完全なものは消え去ります。なぜ、復活の日に結婚がなくなるのか。それは、花婿キリストと花嫁教会の婚姻という本体が出現するので、両者のうるわしい交わりを指し示す雛形としての男女の結婚という影の必要がなくなるからでしょう。主イエスの十字架の贖いという本体が現れたとき、影としてそれを指し示していた旧約のもろもろのいけにえの儀式が不必要になったのと同じことです(ヘブル10:1)。このように教えてくださったのは清水武夫先生でした。目からうろこでした。
それにしても、結婚というものが、終わりの日の花婿キリストと花嫁教会の交わりを指差すものだと認識したら、クリスチャンは結婚を素晴らしい愛に満ちたものとするためにどれほど祈り努めるべきかが実感できるのではないでしょうか。
「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録21:2)