昨晩、仕事から帰ってきた長男が食卓で、ふと「イエス様が復活なさって天に昇られるまでの間に関する聖書の記述はほんとに少ないね。」と話し出した。確かに、その通りである。復活のあと40日ほどイエス様は地上におられたようだが、以前のように(少なくとも可視的には)始終弟子たちといっしょにいるわけではなく、週の初めの日だけに何度か現れて、世界宣教命令を語られただけである。以前のような伝道活動をなさっていない。なぜだろう。
復活されたイエス様の姿については、まだ、今の時代においては、復活の栄光に満ちた勝利者イエス様の姿は、私たちに多くの部分隠されているべきなのではなかろうか。約束として、希望として、私たちは復活のキリストに与かって自らも復活することを知っているのだけれど、今、私たちがもっとよく知るべきは天から地に降り、十字架を背負ってゴルゴタに向かって歩んで行かれたあのキリストのお姿なのではないだろうか。
そこで、キリストの王職をどのようにイメージするかということがとても大事だと思う。キリストが王であるというとき、私たちはその王の姿としてどのような姿を思い浮かべるだろうか。キリストのかぶる冠はどのような冠なのだろうか。それによって、教会の生きかた、キリスト者の生きかたは変わってくる。
筆者は、ウェストミンスター信仰基準に記されているキリストの王職についての理解に問題があると以前から感じていた。小教理問答26を挙げてみよう。
「Q26 キリストは、どのようにして王職を果たされますか。
A キリストが王職を果たされるのは、私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。」
間違っているわけではない。だが、これはキリストの高い状態における王職を表現しているけれども、キリストの低い状態における王職を表現することについては、いかにも不十分である。
「ブラザー・サン、シスター・ムーン」という映画のなかに、アッシジのフランチェスコが見た恐怖の対象としての教会堂でのキリスト像は、黄金の冠をかぶりいかめしい鎧を身につけたキリスト像であった。きらびやかな衣装をまとった司祭は、このキリスト像を指差して、若者たちを戦争に駆り立てたのである。あの時代、教会は富と権力と名誉のすべてを持っていたが、真実なキリストを失っていた。筆者には、ウェストミンスターのいうキリストの王職理解はこの種のものの延長線上にあるように思われる。そして、とても乱暴な言い方であるけれど、これは欧米の「キリスト教国」の帝国主義的振る舞いの精神的なバックボーンとされてしまった、大いなる神学的誤解・聖書理解の誤りなのではなかろうか。
戦地で病を得て帰ってきたフランチェスコは、いくらか病が癒えてきたころ、野を散歩していて、廃屋となったサン・ダミアーノ礼拝堂で、衣を剥ぎ取られ十字架にかけられたいとも優しげな顔をしたキリスト像に出会った。フランチェスコは微笑んだ。彼が捜していたキリストの姿はここにあった。
地上を歩まれたキリストは王でいらっしゃった。だが、それは黄金の冠をかぶりいかめしい鎧をまとった王としてではなかった。ゴルゴタへと向かうキリストは、今にも折れそうな葦の茎の王勺を持ち、辱めのために派手な衣を着せられ、そして荊冠をかぶせられた、お姿でいらした。あの荊冠のキリストこそ、今というとき、希望として復活を知りながらも、まだ現実には復活しておらず、なお多くの罪の残滓のためにえてして傲慢で自己中心になりがちな私たちキリスト者と教会が決して目を離してはならないキリストのお姿なのではなかろうか。
問題は、改革派神学におけるキリスト論だけではない。大胆すぎる言い方であることは承知しているが、フランチェスコの話でも、カトリックにも同様の問題があったことを示唆したように、遡ればコンスタンティヌス大帝がキリスト教を実質的に国教として以来、キリスト教会は、福音書のなかにあれほど丁寧に描かれているあの荊冠のキリストを見失った歩みをしてきてしまったのではなかろうか。それはキリスト教的装いをほどこしたブッシュ政権の戦争好きにも現れていた。誤れるキリストの王職理解のもたらした破壊と流された血は、あまりにもおびただしかった。
・・・そんなことを息子と話した。
それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。(マタイ27:27−30)
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