苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「救い」について比較整理

1.諸宗教のいう「救い」

 病気からの救い、貧乏からの救い、不安からの救い、地獄からの救い・・・というふうに、救いとは「なになにからの救い」と定義される。「キリストだけが救い」という主張に対して、「いやそうではない、ほかの宗教にも救いがある」と反論されるとき、そもそも「救い」の定義がずれている場合が往々にしてあるのではないか? だとすると、その議論は無意味になってしまう。そこで、それぞれのいう「救い」とは何であるかをあきらかにして、聖書がいう「救い」をいっそうはっきり認識する助けとしたい。ごくごく簡潔に。

(1)仏教の救い
a.原始仏教・・・心理的平安
 仏教は本来シャカが説いた原始仏教と、その後、今日、日本で仏教と呼ばれている教えとは非常に異なっている。まずシャカが説いた本来の原始仏教にいう救いについて。シャカは「毒矢の譬え」で、死後の問題は彼の関心外にあるとし、「苦」の制圧が彼の関心事だといっている(阿含経中部第63マールンキャ経)。人生は皆苦であり、苦の原因は、執着にあり、執着の原因は無明(無知)にある。よって、無明を明知に変えれば、執着は消え、執着が消えれば、苦は消えるという。
 たとえば、老いることに人は苦しむ。なぜか?「いつまでも若くありたい」という執着が原因である。その執着の原因は、「いつまでも若くいることができる」という間違った認識つまり無明のせいである。老いに関する苦から解放されるには、人はまず、「誰しも老いるのだ」という明知を得ることである。そうすれば、「いつまでも若くありたい」という執着は消え、その執着が消えれば、苦も消える。
 というわけで、心理的な平安ということが、シャカのいう救いであった。今日的な分類で言うならば、シャカは宗教家というよりも、むしろカウンセラーか哲学者であった。
<参考>中公世界の名著「バラモン経典・原始仏典」


b.大乗仏教・・・来世の救い
 日本の仏教は、本来のシャカが説いたことと相当ちがっていることに気づくが、私たちには身近なので、ふれないわけにはいくまい。浄土教は、来世においてそれぞれの仏の浄土に行くことを救いだと教える。阿弥陀仏なら極楽浄土、薬師仏なら浄瑠璃世界というふうに。
 ところが、日本の仏僧たちは盆の行事によって、仏教に浄土に行くという意味での救いはないことを自ら証明している。盆とは盂蘭盆会の省略であり、盂蘭盆とはウランバナということばから来ている。その意味は「逆さづり」。これは中国で作られた偽経(つまりシャカが教えたのでない)「盂蘭盆経」から来ている。
 盆の季節には、倒懸地獄(逆さづり地獄)で苦しんでいる先祖が、地獄の釜のふたが開いたときに帰ってくるという。ということは、つまり、僧侶が盆の行事をするということは、仏教徒たちの先祖は地獄にいますよと認めていることになるのではなかろうか?・・・もしそうでないなら、なぜ盆の行事をするのだろう。筆者にはわからない。
 ちなみに、シャカは死ぬ直前、弟子たちに修行に励めと命じた(「自己灯明」)。そして、葬式は僧侶のすることではなく、在家信者にさせておけと命じたので、シャカの葬は在家信者たちが行った。やはり彼は死後について何の期待もしていなかったという証しだろう。
参照>仏説盂蘭盆経はこちら
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/urabonnkyou.htm

c.女性は救われるか?
 なお、もともとインドでは、女性には五障があるから成仏できないといわれていた(女人五障)。成仏したくば功徳を積んで男に変成しなければ救われないという教えが生じた(変成男子)。後代の法華経になってはじめて女性が女性のからだのまま往生できるとされたそうである。http://beginsharu.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_538f.html

(2)神道の救いとは
 神道には、本来、教祖もいなければ教義も存在しない。習慣のみがある。「家内安全、商売繁盛」とか「縁結び」などといった願いに、拝めば答えてくれるということにすぎない。したがって、あえて神道における救いを説明すれば、現世における「家内危険、商売不景気」からの救いということになるだろうか。
 さほど昔ではなく江戸時代中期、国学者たちが死者の霊は幽冥に住むと教えるようになったそうである。人は死後に、穢れ(けがれ)を持つ死霊となり、祭祀を行うことで、次第に浄化され、祖霊を経て祖先神になり、大黒主が治める幽冥に住むとか。しかし所詮後付け話であろう。
 まあ、一般的には、日本では葬(死)は仏教が担当し、神道は祭(現世利益)担当となっているのが実態。
 上の記述から気づかれるだろうが、葬式宗教化してしまった仏教で行っている先祖供養なるものの習慣は、シャカの教えとはなんの関係なく、どうも神道から来ているようである。


(3)イスラム教のいう救いとは
 ムハンマド旧約聖書を参考にしてイスラム教を作った。神は創造主なる唯一のお方であるとして、死後、人は楽園か地獄に行くという。救いとは来世において楽園に入ることを意味する。救われる者とは、イスラムの男性信者であり、5つの宗教的善行を積んだ者、もしくはジハードの戦死者である。5つの宗教的善行とは、信仰告白、礼拝、喜捨(救貧税)、断食、巡礼である。
コーラン56:1−44にあるように、5つの宗教的善行を積んだ者の行く天国とは「すてきなベッドがあって、悪酔いしない美酒、目の大きな色白の処女」に囲まれた男の満足世界である。この天国の処女たちとは、救われた男性の慰みのために、特別に造られた存在であって、救われた女性たちではない。女性の救いについてコーランは何も述べていない。
<参照>中公「世界の名著 コーラン」、中村廣治郎http://www.orient-matsudo.com/nakamura.html#
コーラン全文はこちらにもあるので56「出来事章」を参照されたい。http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html



 以上のように見てくると、同じように「救い」といっても、それぞれの宗教が提供するといっている「救い」の内容はずいぶん異なっている。 来世の救いの教えのないものは原始仏教。来世の救いの教えのあるものは大乗仏教イスラム教。あるような無いようなのが神道大乗仏教の古いところでは女性の来世の救いはないとされ、イスラムの来世はあまりに男中心である点で信用しがたいと筆者には感じられる。



2.キリストの福音のいう救いとは 

 キリストによる救いとは、創造主である神の前における罪と、その罰としての永遠の死(神との分離)からの救いである。したがって、キリストを信じる者が受ける救いのエッセンスとは、現世と来世における、罪の赦しと神とともにある人生である。救われる人々に関しては、民族・身分・男女の別はない。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)
 もう少しくわしく説明すると、次のようになる。
 キリスト者が現世において受けるおもな祝福とは、義認(キリストの贖いゆえに神の前に罪ゆるされたこと)、子とされること(新生し神の養子とされキリストを長子とする神の家族に入れられたこと)、聖化(キリストに似た者とされていくこと。すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という品性を徐々に結んでいくこと)のである。
 次に死んで来世に行って、キリスト者が受ける祝福は、ただちに霊は罪から完全にきよめられ、栄光化されてキリストのもとに行き、復活の日まで祝福のうちに待ち望むことである。
 そして究極的な救いとは、キリストが再臨しわれわれが復活させられ最後の審判が行われるときには、キリストの贖いのゆえに改めて公に罪の赦しを宣告され、神を愛し隣人を愛し新しい天地に生きるという祝福に入れられることである。
 筆者は、聖書にしるされているキリストにある救いに導かれて感謝している。