苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天国の市民として

         2011年7月31日 小海主日礼拝



  (ヤブカンゾウ  小学校への散歩道、相木川のほとりに咲いています。)

1.キリストの福音にふさわしく
(1)市民意識をもって
 パウロはピリピの兄弟姉妹に「1:27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と奨めます。
 この「生活しなさい」ということばとしてはギリシャ語ポリテウオマイということばが用いられています。ポリスというのは当時の都市国家のことですから、「市民生活をする」という意味のことばです。先に少し紹介しましたが、ピリピの町はローマの直轄領ということで、少々気位の高い市民意識があったといわれています。飛騨高山の市民が、江戸幕府天領であったことを誇りとしたように、自分たちはローマ帝国天領であることを誇りとして生活をしていたというわけです。そういうピリピの人々にとって、おそらくポリテウオマイ市民生活をするというのは、ぴんと来る表現だったのでしょう。
 この地上にある人間が作ったローマ帝国の市民であるというだけで、その名に恥じることがないようにという意識をもって市民生活をしているとするならば、まして神が造られた神の国に市民権のある人間としては、はるかに神の国としての市民としての意識をもって生活すべきではないかというのです。

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(2)キリストの福音にふさわしく
 では、キリストの福音とはなんでしょうか。そしてキリストの福音にふさわしい生活とは、もう少し具体的にどういうことでしょうか?パウロが福音というのを総括的に述べているところを見てみましょう。
 「 15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」
(Ⅰコリント15:3−4)
 パウロにとって福音とは、「受けたこと」です。かつてパウロパリサイ派の律法学者として人間の側が、律法を行うことによって神の前に自分の義を立てようという生き方をしていました。つまり、いわば人間が自分の力で獲得する義を追求していました。しかし、キリストに捕らえられて回心したとき、パウロの考えは180度変わりました。すなわち、キリストの救いは「受けるもの」なんだということです。
 ルターの表現でいえば、聖書のことばの中には律法と福音の二つがあります。律法とは人が行うことであり、福音とは神が行うことです。神であるキリストが私たちの罪をあがなうために十字架に死に、三日目によみがえられた。この神が行われたわざを私のものとして受け取ったとき、私たちは神様の前に罪をゆるされ、義と認められ、天国の市民とされたのです。こういう意味でキリストの福音とは、「受けたこと」なのです。言い換えれば、キリストの福音とは神の恵みだということです。恵みとは、それを受け取るに値しない者が与えられる不当な祝福のことです。
エス様のたとえ話のなかに王が使用人たちに貸した金を清算するという話があります。
「18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。
 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。 18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。 18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。 18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。 18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。 18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。 18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」(マタイ18:23-32)
「キリストの福音にふさわしく生活する」ということには、豊かな内容がありますが、まず基本は自分が神からあわれみを受けた者らしく、他の人々にもあわれみ深くあることです。自分が神から寛容に扱われたように、他の人に対しても寛容であることです。愛とはなにかというとき、まずパウロは「愛は寛容であり」といいました。寛容であるとは、ゆるすこと、気前よいことです。罪深い自分がキリストの十字架の愛によって赦されたという、この自分の救いの原点をまず大切にすることです。

2.反対者たちに脅かされず

「そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。」
 パウロは「反対者たち」を警戒していました。ピリピ伝道における反対者を誰かに特定することはできませんが、初代教会が共通して直面したのは、ひとつはユダヤ教徒からのユダヤ主義による反対でした。人が救われるのは律法の行いによるのだという教えをもって彼らはキリスト教会に反対しました。もうひとつ、初代教会が直面したのは、ギリシャ的な異教社会からの反対でした。キリスト教徒は、先祖伝来のギリシャの偶像の神々をおろそかにする連中であるという非難がありました。いずれにせよ、外側からの脅かしに教会は常に直面していなければなりませんでした。

 そういう外側からの攻撃に対し揺るぐことなく立ちつづけるためには、なにより内側の一致ということがたいせつなことです。この点で、実は、パウロがピリピ教会について心配していることがあったようです。だからこそ、「霊を一つにして」とか「心を一つにして」と言ってるわけです。一致について問題がない人々に一致しなさいと勧める必要はないでしょう。一致について問題があったからこそ、一致がたいせつだと教えているのです。
 ピリピ教会は、その始まりからたいへん伝道熱心な教会でした。また、自分たちの地域における伝道において熱心なだけでなく、パウロが行った先々に福音を伝え教会を開拓することについても祈りとささげものと人を送ることをもって支えるというほど熱心な人々でした。道徳的な面においても、コリント教会のような乱脈があったようすは伺えませんん。質実剛健をもって鳴ったローマの天領としての町の気風が、そのようにさせていた背景かもしれません。ピリピ教会は、伝道熱心という意味でも、道徳的にも模範的な教会であったということができると思います。
 けれども、そういう熱心で生真面目な兄弟姉妹が集う群れで時にありがちなことは、一致ができなくなるということだったのでしょう。「私が正しい」「いや私が正しい」と、立派な人同士が衝突してしまうのです。かつてパウロ自身、バルナバと青年マルコの扱いについて衝突してついに物別れになってしまったことがありました。パウロバルナバも立派な正しい人でした。自分の都合で伝道戦線から逃げだした青年マルコを、次の伝道旅行に連れて行くべきかどうかで二人は反目したのでした。そのように、ピリピ教会も忠実で熱心な人々の多い群れでしたが、一致という点においてやや心配があったのです。そして、もし内側の一致ができていなければ、外からの反対者たちにつけいる隙を与えてしまうでしょう。
 そこでパウロは、キリストの福音の原点に立つことを勧めています。
 キリストの福音にふさわしく天国の市民として生きなさい。自分は、どのような自分の功績によって救われたのでもなく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに救われたのだということを深く味わいなさい。そうすれば、私が正しい、いや、私が正しいといって反目する愚かさを悟るでしょう。霊を一つにするというのは教理的な面での一致を意味し、心を一つにするとは教会生活・教会運営における常識的な面での一致を意味しています。教理において一致し、教会運営において一致して、福音の信仰のためにともに奮闘するのですよ、とパウロは奨励しています。


3.キリストのための苦しみ

 それにしても、信仰生活に「反対者」がいて、さまざまな妨害や迫害を経験することはつらいことではあります。そういうピリピの兄弟姉妹たちのことを思って、パウロキリスト者として受ける苦しみについて言及します。天国の市民が、地上で暮らす以上は、その苦しみは避けがたいものです。いや避けがたいというよりも、パウロは、あえてキリストのために苦しみを選びとりました。
 今、パウロはローまで幽閉され、裁判を待つ身です。彼はキリストのために苦しみの中にありました。パウロは、その苦しみをむしろ喜んで自ら進んで経験していたのです。彼はなんとしてもローマに、ローマの皇帝にも福音を証言する機会を得たいと願って、ここにまでやってきたのでした。パウロはキリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも神が下さったのだという心境をここに吐露します。そうして、ピリピの兄弟姉妹が経験している苦しみも、神からの贈り物なのだと心得なさいと勧めます。
  「1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。 1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。」
 イエス様は復活の後、ガリラヤ湖のほとりで弟子たちに現れたことがありました。そのとき、ペテロはイエス様のことを三度にわたって「知らない」と言ってしまったことで、自分はイエス様の弟子として伝道者としてふさわしくないと感じてがっかりしていました。そこでイエス様は、ペテロに対して「バルヨナ・シモン。あなたはわたしを愛しますか。」「あなたはわたしを愛しますか。」「あなたはわたしを愛しますか。」と三度、おたずねになったことがあります。悲しいような問いかけですね。
 イエス様の三年間の伝道生活の中で、イエス様を信じて救われた、病気が治った、と喜んだ人は多かった。けれども、イエス様を愛する人は少なかった。いいえ、ほとんどいなかったのです。イエス様が十字架にかかられてときには、自分は裏切りませんと言った弟子たちまでもみなイエス様を捨てて逃げてしまいました。みな自分のことを求めていてキリストのことを求めてはいないのです。
 イエス様を信じて、天国の切符を得て、家族も平和になって、生活も安定して・・・ということは確かにありがたいし、感謝すべきことです。神様に背を向け、神様の定めた秩序から外れて壊れていた人生が、イエス様を信じたときから、本来のありかたに回復することによって、本来のすがたに回復されていくのです。たしかにキリストを信じるならば、その人の人生は目先たいへんなことはあったとしても、長い目で見て幸福になっていくことは確かです。実際、クリスチャンの多くはそうした経験をします。暗い希望のない人生が、死後にも天国の栄光が待っている希望のある人生に変えられます。いつも人と比べて背伸びをして、ねたんだりねたまれたりすることでストレスの多い生活が、人と比べる必要のない神から賜ったオンリーワンとしての人生を生きればよいということに変えられます。人知れず悩んでいる自分の内側の罪が赦されたことによって、たましいに平安をもって生きることができるようになります。いつもぴりぴりとして人とうまく和らぐことができなかった人が、キリストによって与えられた平安によって、人を赦し和らぐことができるようになります。・・・これらはキリストを信じる者に神がくださる賜物です。
キリストを信じる信仰によって、多くの利益をこの世にあっても次の世にあっても私たちは享受することができます。
 けれども、天国の市民であり、キリストの弟子としてこの世に派遣されているならば、単にキリストを信じる信仰による喜びや利益だけでなく、キリストのための苦しみをもキリストから賜っているのです。それでこそ、キリストの弟子です。私たちはキリストを利用して自分が幸せになるという自己中心的な生き方ではなく、キリストに自分自身をささげてキリストの栄光をあらわすために生きる人生へと召されています。そこには苦しみもありますが、意味のない苦しみではありません。私を愛し、私のためにいのちまで惜しまなかったキリストのために味わう光栄な苦しみです。

*1:注:古代の共和制都市国家における自由市民
古代ギリシアのπόλις ポリスや、共和制古代ローマにおける男性の自由市民は、政治に参画するとともに、兵士として共同体の防衛義務を果たした。彼らは都市国家の住民として「市民」と呼ばれた。(ラテン語で civitas)Wikipediaより