苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

北極星のように

     
        ピリピ2:12−18

1.自分の救いの達成に努めよ

 「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」2:12

 「そういうわけですから」というのは、「キリストが父なる神のみこころに従順であることに徹せられたのだから、そのキリストを信じるあなたがたも、キリストの従順を模範として、神に従順でありなさいという意味です。もっとも「従順」というと、もしかするとおっかない人の命令にいやいや従うことをイメージするかもしれませんが、パウロのことば使いとしては、従順とは神の恵みの意思にしたがうことを意味しています 。たとえば、ローマ10:16には「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」というふうに、「福音に従う」という表現が出てきます。
 つまり、神がキリストにおいて表してくださった福音にある、神の愛を、救いを拒んではならない、その恵みを受け取りなさいということです。「おそれおののいて」といわれているのは、神の驚くべき恵みに対して、「こんな自分が救われてよいのですか」という存在が揺り動かされるような深い感動をもって、ということです。
 パウロがいっしょにいたとき、ピリピの兄弟姉妹はパウロが語る福音を受け取り、神の恵みの意思に対して従順でした。今はパウロが牢におり、ピリピの兄弟姉妹に会うことができませんし、もしかすると裁判の結果、このまま地上では二度と会えなくなるかもしれません。だから、自分がいない今はなおさら、あるいは、二度とこの世では会えないとしても、キリストの十字架の出来事に表された神の恵みの意思に従って栄光の義の冠を受けなさいとすすめるのです。

 「自分の救いの達成に努めなさい」とあります。達成というのは、つまり、最後まで信仰をまっとうし、主が迎えに来られる最後の瞬間までキリストの恵みにすがり続け、キリストに忠実でありなさいというのです。これは奮闘努力を要することです。そして這いつくばってでも、途中でリタイアしてはいけません。キリスト信仰には、地上では完成はないので、一生涯、常に前進あるのみです。キリストとのまじわりは、次の世においていよいよ本番の来る永遠のことです。救いの達成には、私たち人間の意志と努力が含まれています。神の恵みの意思を受け取るというのは、洗礼を受けたから一応名ばかりですが私はクリスチャンです、ということではありません。
 
2.神が与えてくださる志を

 「自分の救いの達成に努めなさい」とあります。では、その人間の奮闘努力は人間自身の内から湧いてくるものなのかというと、そうではなく、まず神が先行的に私たちのうちに働き、私たちはその神の恵みによるのだとパウロは続けます。神の恵みによって、キリストに忠実に歩みたいという志が立てられるのです。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(2:13,14)
 神様はイエス様を信じる人の心に聖霊を与えてくださいます。聖霊は私たちのうちに働いて、志を立てさせてくださいます。だから、「すべてのことについて、不平を言わないで、疑わないで行いなさい」とパウロは奨めています。
 パウロは、異邦人への宣教師としての召しを受けていますから、その宣教活動において神のみこころを知ることに敏感でした。格別、相手がピリピ教会の兄弟姉妹であることを思えば、感慨深いものがあります。というのは、パウロがピリピ伝道に導かれたのはまさに、聖霊の導きによることだったからです。復習してみましょう。使徒16:6−12
「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。
ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
  そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。」
 パウロのもともとの計画は小アジア半島でもっと宣教することでした。ところが聖霊がそれを禁じてパウロを、マケドニヤ半島つまりヨーロッパを対岸に望むことができるトロアスの町に来たのです。そこでマケドニヤ人ルカと出会い、夜にはマケドニヤ人が夢に現われて「渡ってきて、私たちを助けてください」というのでした。こうしてついにパウロは「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信し」て、船に乗ったのでした。
 「神があなたがたのうちに志を立てさせ、事を行わせてくださる」ということばは、私たちにとってもたいせつなことです。私たちキリスト者は、神のみこころを行いたいと願うものですが、むずかしいのは、それが神から出た志であるのか、それとも単なる自分の欲であるのかをどのようにして識別するかです。もし、それができなければ、自分の願望を神のみこころだと思い込んでしまうことになってしまいます。
 そこで私たちの人生に対する御霊の導きを知るための大原則を確認しておきたいと思います。まず聖霊は聖書を啓示なさったお方ですから、聖霊が聖書の基本的な教理に反することをさせようとはなさらないということです。「心の中に『泥棒しなさい』と御霊に示されました」という人がいたら、それは御霊の示しではありません。聖書に「盗んではならない」と書かれているからです。
 これがみこころだと確信するまでは、スタートできないのかというと、必ずしもそうではありません。神を愛するという動機から事を行うことです。「神を愛する人々、すなわち神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)とあります。主イエスは言われました。ですから、「神様、わたしはあなたを愛します」という祈りをもって、まず前進する積極的姿勢がたいせつです。パウロはそのようにしてアジア伝道に出かけ、御霊によって修正されてヨーロッパ伝道を始めました。それでよかったのでしょう。でも、そのように進みつつ、主のみこころを尋ねながら行くうちに、トロアスへ、そしてマケドニヤ(ヨーロッパ)へと導かれたのでした。
 私たちは人間であって神様ではありませんから、神様のみここをを完全に知ることはできません。しかし、パウロのように神様を愛して積極的に進もうとするならば、もし違っていたら御霊が道を修正してくださいますから、びくびくせずに進めばよいのです。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。
 
3 北極星のように

 「自分の救いを達成しなさい」とパウロは命じましたが、それは、ほかの人はともかく、自分だけは天国に入りそこねないようにがんばれという意味ではありません。そんな消極的なことをパウロは言うわけがありません。パウロは、次のようにいうのです。
「2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、 2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
(ピリピ2:15−16)
 たしかに、あなたのことを神様は御子の十字架の命に代えてまで救おうとなさったのですから、あなたが自分の救いを達成することはたいへん有意義なことです。自分の救いを粗末にすることは、神様のみこころを踏みにじることです。
 ですが、それとともに、私たちには世界に対する使命があります。それは、真の神様を知らず、真の神様に背を向けた時代の暗闇の海の上を、永遠のいのちへの希望もなくむなしく漂っている船の上の人々のために、星のように輝いて、イエス様に導くためにほかなりません。
 新改訳と文語訳はこれ(フォーステーレス複数形)を「世の光」と訳していますが、口語訳、新共同訳は「星のようにこの世に輝いて」「世にあって星のように」と訳しています。どちらにも訳しうることばですが、ダニエル書12章3節との関連から、「星」と理解したいと思います。羅針盤もない時代、広い海を旅することができたのは、船乗りたちが星を見ることができたからです。北極星を見れば、方角がわかるのです。北極星はどんなときにも変わることなく、真北を指しています。
 自分がイエス様を知らずに歩んでいたときのことを振り返ってみるとなんと空しい日々だったことかと思います。何か目先のことにとりあえずしがみついて、自分を無理に奮い立たせてがんばってみるけれど、つかんだと思ったらそれは空しいものだったということを繰り返していたように思います。ちょうど、チルチルとミチルが青い鳥をつかまえたら、その瞬間、それは死んでいるただの茶色の鳥になってしまったように。そうして、一日一日、永遠の滅びへと向かって進んでいることに気づかずにいたのでした。時々ふと立ち止まると「むなしいなあ・・・。生きていてなんの意味があるのだろう。」とつぶやきました。
 イエス様を信じた私たちは、そういう暗闇のなかにある人たちに、間違いなくイエス・キリストを指差す星のような任務を帯びています。キリストを指し示すというのは、必ずしも私たちが立派な人間でなければならないということではありません。もしかすると、ただ強くて立派なだけなら、人々はあなたを見るだけで、あなたをとおしてキリストは見えないかもしれません。むしろ、自分の弱さを重々認めた上で「でもイエス様が助けてくださいますから。」といえることです。沈没寸前の船の中、絶望のやみが覆っているようなときに、パウロが「でも、主イエスが助けてくださいます。さあご飯を食べましょう。」と言ったように、この不安な時代に、イエス・キリストを指し示すのです。
 そのためには「いのちのことばをしっかり握って」いることが大切なことです。聖書こそ真理の土台であるからです。ここにキリストのいのちの福音があるのです。

結び
 パウロは、もしピリピの兄弟姉妹が、キリストにあって一致を保ち、いのちのことばをしっかり握って、キリストにある完成に向かって前進また前進しているならば、これに勝る喜びはありませんでした。彼らの歩みがキリストをまちがいなく指し示す夜空の北極星のようなものであれば、パウロにとっては、これに勝る喜びはありません。
もしかするとパウロは何日かたてば、殉教しなければならないかもしれません。2:17,18 「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」
 しかし、パウロは、殉教を悲愴なこととして語ってはいません。キリストにささげる尊いささげものとして、自分の殉教を理解していますが、そこには悲愴な決意ではなく、喜びがあふれています。それは、パウロにとっては生きることはキリスト、死ぬことも益であったからです。たしかに、キリストにある者は、この肉体を去るときには、主が迎えに来てくださって死も涙も叫びもなく希望と喜びと愛に満ちた天国へと入れてくださるからです。
 私たちは、キリストにあって罪赦され、神の子どもとされ、この真理の見えない暗闇の海に派遣されました。いのちのみことばをしっかりと握り締めて、私は弱いけれど、イエス様は助けてくださいます。イエス様といっしょに生きていきましょう、とまちがいなくキリストを指し示す星として輝いてまいりましょう。