苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

クリスチャンの喜び



ピリピ4:4−9
2011年10月23日 小海主日礼拝

 先週お話した、後半からもう一度、味わいたいと思います。クリスチャンの喜びについて、まず、「主にあって」の喜び、次に、希望ある喜び、そして、「祈れる」喜びについて。

1 いつも主にあって喜びなさい・・・喜びと健康

4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


 「文句ばっかり言ってないで、時々は、喜びなさい。」「うれしいことがあったら、喜びなさい。」こんなことばなら、誰でも言うあたりまえのことです。しかし、「いつも喜びなさい」というのが、神のことばです。あなたは今暗いトンネルの中にいるような気持ちかもしれません。ところが、その今、喜びなさい。というのです。
 そんな秘訣を先週ごいっしょに学びました。なんですか?・・・その通り、「主にあって」ということです。悲しいこと、苦しいこと、いろんなことがあるけれども、「私は主イエスの中にいる」という事実を思い出せば、どんなときでも喜ぶということです。
 また、「主にあって」とは「主イエスに結ばれて」という意味でもあります。
 聖書は、決して、現実から目をそむけて、いい気分になっていなさいというふうな人生観を教えてはいません。むしろ、「自分の十字架を負い、そして、わたしについてきなさい。」とイエス様は、弟子たちに命じていらっしゃいます。しっかりと地面を踏みしめて主についてきなさい、と教えるのです。そういう十字架の現実の中で「もう一度言います。喜びなさい。」と命じているのです。喜ぶというのは、うれしいという気分や感情ではなく、どのような状況にいるにせよ、意志的・主体的に決断することです。私は主イエスの中に置かれているという、この事実を何度も、何度も思い出し、味わうことです。

ところで「喜ぶ」ということは、心だけでなくからだにもよいことなのです。旧約聖書箴言には次のようにあります。

「14:30 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」
「17:22 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」

 現代医学は、私たちのからだの中の「活性酸素フリーラジカル」が、細胞に損傷を与え、遺伝子を傷つけて、老化や病気を引き起こす原因物質なのだということを明らかにしました。活性酸素というものは、私たちのからだの中に、タバコ、大酒、化学物質、紫外線、放射性物質、酸素を取り込みすぎる過激なスポーツも活性酸素を増やします 。そうして、活性酸素をふやすもうひとつの大きな原因は、ストレスから来る怒りや憎しみや恨みといったマイナスの感情です。「激しい思いは骨をむしばむ」「陰気な心は骨を枯らす」という聖書のことばどおりです。
 反対に、陰気な心を追い出して、穏やかな心、陽気な心でいるならば、体の中に何が起こるか?一つには今申し上げた活性酸素が増えないので、老化を防止し、病気を起こさせないことになります。それだけではありません。産婦人科の医者で『日本笑い学会会長』昇幹夫先生によれば、笑いは、私たちのからだの中にNK細胞という、免疫力をもつ細胞を作り出すのだそうです。NK細胞は癌とかウィルスとかをやっつけてくれます。氏はこんなことをおっしゃっています。
「20年前、お笑いの吉本興業に協力してもらって難波花月である実験を行いました。参加者に3時間半お笑いを聴いてもらった後に、NK細胞(ナチュラルキラー細胞)がどうなっているか調べた。すると、明らかに笑った後のほうがNK細胞は元気になっていたんですね。NK細胞は、ガン細胞やインフルエンザウイルスをやっつけます。 」
そのNK細胞の増加量は、癌のためのいわゆる免疫療法で行われるもっとも効果的なものと同じ程度なのだそうです。もっとも、NK細胞を元気にするのはお笑いだけではありません。第一の「笑うこと」と並んで、「2 泣くこと、3 人に話を聞いてもらうこと、
4 お化粧すること、5 楽しく歌うこと、6 良い睡眠を十分とること、
7 冷たいものを取らず冷やさないこと」が良いそうです。
今日はなんだか健康講座のお話みたいになってしまいましたが、こうしてみるとクリスチャン生活というのは活性酸素を減らし、NK細胞の増える生活だなあと思います。クリスチャンになるまで、日本人は喜怒哀楽を人前で表すことを嫌いますが、礼拝の中で賛美したり、説教を聴きながらみなさん泣いたり笑ったりしています。また主の日には兄弟姉妹に話を聞いてもらい、主の日には少しおしゃれして礼拝に集い、ともに歌います。ただし礼拝中に、良い睡眠を十分に取ることは避けていただきたいと思いますけれど。というわけで「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」というのは心とからだを与えられた私たちにとって、主からの愛の配慮に満ちた大事な命令なのですね。

2 終末的期待をもって、喜ぶ
 
 いろんな難しい現実があっても、クリスチャンには喜びが絶えることがない第一の理由は、「主の内にある」ということでした。喜びなさいと言われる第二の理由は、また、「主が近い」ということです。

「4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」

 「主は近い」というのは、主イエスの再臨が近いという意味です。主イエスは再び来られて新しい天と新しい地を造り、そして、私たちに、復活のイエス様に似たすばらしいからだが与えられて、その新天新地に住むようにしてくださいます。アダムの堕落以来、被造物全体が喪に服しており、うめき声を上げているのが、私たちの住んでいるこの世界です。たしかに今この世界にも、神様の恵みが注がれているので、太陽の恵み、雨の恵み、季節の移り変わりの美しさ、おいしい様々な作物や春には山菜、秋にはきのこなどすばらしいことはたくさんあります。けれども、反面、太陽が照りすぎて旱魃になり、雨が降りすぎて大洪水になり、きのこや山菜にも毒あるものがあります。その上、今度は原発の人災できのこはセシウムが多いとか聞かされます。私たちが住んでいる今の時代のこの世界には、神の恵みとともにサタンの妨害と人間の罪が、同時にある、そういう現実があります。光と闇が交錯するのが、私たちのこの時代です。
 私たち自身の心の中にも、主イエスの御霊の恵みによって神の喜ばれることを願ってこれを熱心にしたいという御霊に導かれた思いと、同時に、神に背いて神の悲しまれることを好んでしまうという肉的な現実があります。この世界、この私たちは、主のご支配を経験しつつ、同時に悪魔の影響も受けているのです。
 パウロは、その苦しみについてこのように言っています。
「7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ローマ7:22−24
 けれども、主イエスが再び来られる日、神様をないがしろにする肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という世と世の欲は滅びてしまいます。そうして神の正義が支配することになります。私たちのからだも、御霊の完全なご支配のなかで神を愛し隣人を愛することに専心するようになり、この被造物世界の隅々にまで神様の正義と愛の支配が行き渡ることになります。
「主は近いのです」。主の再臨が近いことを思うならば、まあこの地上のことで損した、得した、あの人はああだ、この人はこうだと思い煩いのほとんどは、小さなことだとわかるでしょう。そうだから、「あなたがたの寛容な心を」ということになります。

3 祈りを聞いてくださる生ける神ゆえに喜ぶ

 クリスチャンは、第一に「主にあって」つまり、主イエス様の摂理の御腕のなかに抱かれている事実のゆえに、その喜びは苦難の中でも尽きることがありません。第二に、主イエスが再びイエス様が来られて、新天新地をもたらし、そこに住まわせてくださるという希望のゆえに、今、喜び期待して歩むことができます。 そうして、第三に、将来の希望だけでなく、今、このときクリスチャンとして生きていく上で、願いを祈りにおいて聞いて抱けるゆえの喜びです。祈りをもって主に訴えることが許されています。

「4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 時々、神様に願い事をすることはご利益宗教であるというクリスチャンがいます。たしかに、神様のみこころを無視して、ひたすら自分の欲望をかなえるために祈り願うというのは、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っている私たちにふさわしくないでしょう。けれども、みこころが天に成るように、地でもなるために、これが必要である、あれが必要であるということはあります。私たちは大胆に、そして、具体的に祈ってよいのです。祈るべきです。
 ある人のところに夜中に友人が訪ねてきました。旅行から帰ったばかりで腹ペコです。でも、食事をあげたいけれど、あいにく何にも戸棚になにもありません。そのとき、彼は隣家に行って、ドンドン戸をたたきながら言いました。「パンを二つ貸してくれ」と。イエス様は祈りを教えるとき、このように具体的で、執拗であるようにと教えてくださいました。旅から帰った腹ペコの友人をもてなすためのパン二つ。これは明らかにみこころにかなった願いでしょう。私たちは、祈るときに、人格としての神様と出会うことができます。神学議論をするよりも、また、くよくよ思い煩うよりも、実際に、声に出して具体的に熱心に祈ってみましょう。
 そうするとどうなりますか。「4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあります。心を注ぎだし祈った人は誰もが経験したことがあるでしょう。あの心配、この心配を抱えたままでいるのではなくて、そういうときは、一人になって、その思いの丈を神様の前にすべて注ぎだしてよいのです。泣いてもいいのです。もし家の中に、そういう静かに一人になれる場所がないならば、車の中で、とにかく神様の前に魂を注ぎ出して祈ることです。神様は、あなたがそのように訴えてくるのを待っていらっしゃいます。「さあ、来たれ、論じ合おう」とイザヤ書にもあるでしょう。

むすび 
 後は、世間のだれにも通じる善の奨めです。
 

4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

 クリスチャンにはこの世の人々のもっていない約束と希望があり祈りを聞いていただける特権があります。しかし、「主にあって」という祝福、再臨の希望、祈りにこたえたまう神などは、まことの神を知らない人たちにはわかりません。この世に派遣されている私たちは、誰にもわかる善でもって、神をあかしする必要があります。主は、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とおっしゃいました。主がくださるチャンスを用いて、積極的に善をおこない、父の名があがめられるようにすることです。
 今回の大震災において、東北の多くの人々が被災しました。東北地方は教会がとても少ないのです。ですが、この地に日本中、世界中からクリスチャンたちが出かけて奉仕を続けています。同盟教団からも29チームが派遣されました。まもなく30番目のチームが行こうとしています。信州宣教区からも派遣されました。最初はボランティアのクリスチャンたちが行っても、心開いてくださる方は少なかったそうです。けれども、支援が続いているなかで、だんだんと心開いてくださる方たちが出てきているという現状です。いわきの教会のレポートとして、炊き出しのスペースの脇に積まれている聖書やトラクトを、だんだんと手にとって読んでくださる方が増えてきたという報告を先日もいたしましたね。
 通じることばは、愛のわざです。これらの喜びを原動力とする奉仕をとおして、主イエスをあかしすることは、父のみこころにかなったことです。そうして、イエス様に心開いた方たちは、私たちとともに主にある喜び、再臨の希望、祈りを聞かれる神を知ることができるのです。