苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を知ることと神を愛することの統合

 昨日の続きです。若いとき、二十年も前に書いた生硬な表現ですが、とりあえずそのまま載せておきます。『神を愛するための神学講座』の末尾に収めてあるものの転載です。


3 神を知ることと、神を愛することの統合

 神を知ることと神を愛することとが、一つとせられるために必要なことは、第一に直接的・抽象的にでなく間接的・具体的に神を知るということであり、第二に知性の傲慢の罪がいやされることです。(用語が特殊ですが、読み進めればわかります)


(1)聖書における啓示の特質
 「直接的でなく間接的に」という意味は、神様が私たちに理解できる方法でもって啓示してくださったその啓示を媒介として、神を知るということです。神様がかけて下さった橋を使ってのみ、私たちは神のみもとに行くことができます。神様は聖書という人間にわかることばで、啓示を保存されました。「直接的に」神を知ろうとするというのは、それと逆で、神の啓示である聖書、受肉された神の御子を無視して、哲学的思弁でもって神を知ろうとする態度を意味しています。

 私は、組織神学を学びながら、一方でいつもひとつの疑問を持ち続けていました。組織神学的な聖書の学び方をすると、つまり、神論、人間論、キリスト論、救済論・・・という順序によって聖書の真理を学ぶと、順序立ててバランスよく神知識が蓄えられてとても便利です。それにもかかわらず、聖書自体はどうしてそういう書かれ方がされていないのだろうか、という疑問でした。聖書は、歴史的文書や詩集や手紙などの集成として成立しています。聖書には、具体的な歴史的人物や民族たちの歩みが記され、そこに神がどのように働かれたか、語られたかということが記されています。もっとも体系的であるローマ人への手紙であっても、やはり一人の使徒から特定の教会の人々に対する手紙という歴史的文脈にはめこまれたスタイルです。どうしてだろうか、と考えました。

 聖書における啓示の特徴は、教えだけではなく、常に具体的な歴史的文脈があるということです。格別、私たちは何げなしに福音書を呼んでいるわけですが、福音書というジャンルは、福音書が書かれた一世紀という時代においては、他に例を見ないものであるということが様式批評をした聖書学者によって指摘されています。すなわち、「第一世紀の視点からすれば、福音書は文学的な発明(新しさ)である。」そうです(M.Kline,The Structure of Biblical Authority,p173) 。どういう点が新しいのかというと、福音書は二つの異なる種類の資料からできているということです。つまり、教えの語りと歴史的叙述という二つです。イエス様の言葉とわざとが記されているということです。クラインは、この起源はギリシャ・ローマなどの文学様式には見えないけれども、出エジプト記における様式を起源としているのであると述べるのです。

 とにかく、福音書の様式にもっとも端的に現れたこの「教えの語り」に「歴史的叙述」が一体になった表現様式というのは、聖書における啓示の特徴であると言えましょう。私たち は、そこに「言葉の啓示」と「御業の啓示」が一体になって、進んでいるのを見るのです。

 組織神学的な学びにおいては、この具体的歴史性が除かれて、抽象化されるわけです。たとえばペテロという人がいて、イエスの問いかけに対して「あなたは生ける神の御子キリストです。」と信仰の告白をもって答えたというできごとは、「キリスト論」においてはイエスのひとり子性、キリストという職務論となって、そこからペテロという具体的人物のこと、ピリポ・カイザリアでこの告白があったことは抜け落ちるわけです。

 聖書の啓示は、ことばが常に具体的歴史的文脈の中にいわば受肉しているのです。ここに神を知ることと神を愛することを分離させない聖書啓示の秘密があるのではないでしょうか。ですから、私たちは教理的に神認識をしようとするとき、それをもう一度聖書の歴史的文脈や私たちの置かれている具体的生活の中に、適用するという教理の学びかたが必要であると言えます。


(2)受肉したキリストにおいて−−−ヨハネ1:14、18 †
 ことばが、完全な意味で具体的歴史・事実・生のうちに宿られたのは、イエス・キリストにおいてでした。ことばが具体的歴史のなかにはめ込まれているという聖書の啓示のありかたは、キリストにおける受肉のいわば型なのではないでしょうか。キリストは啓示の焦点です。ことば(教え)のみならず、ことばと御業をセットにして、歴史的具体性の中にみこころを現わすという啓示のあり方そのものが、キリストの受肉を示すものなのでした。アウグスティヌスは神を知りながら神を愛さず高ぶる己を癒したのは、キリストの受肉の真理であったと告白しています。

 「そこであなたは、まずはじめに、たかぶる者をしりぞけたまうが、へりくだる者にたいしては大きな恵みを与えられるということ、御言葉が肉となり人々のあいだに宿り給うて謙遜の道が明示されたのは、じつに大きなあなたのあわれみによることであったということを示そうと思し召され、恐るべき傲慢にふくれ上がっていたある人を通じて、ギリシャ語からラテン語訳されたプラトン派の書物を、私のために配慮してくださいました。」(『告白』7:9:13)

 「もしも私たちの救い主キリストにおいてあなたの道をさがさなかったならば、通暁するどころか破滅していったことでしょう。じっさい私は、罰を身いっぱいにうけながら、知者と思われたいという欲望をいだきはじめ、そのような我が身を泣くことなく、かえって一層おのが知にふくれ上がってゆきました。・・・・・僣越と告白との間に何という大きな相違があるか、ゆくべき方向を知りながらゆくべき方法を知らない人々と、至福の国にみちびいて、それをながめるだけでなくついにそこに住まわせるに至る道との間に何という大きな相違があるかを、はっきりと識別するためにあったのです。」(同7:20:26)

 パスカルもまた次のように記しています。

「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』  哲学者や、学者の神ではない。  確かだ、確かだ、心のふれあい、喜び、平和、イエス・キリストの神。  『わたしの神、またあなたがたの神』。  『あなたの神は、わたしの神です』。  この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。  神は福音書に教えられた道によってしか、見いだすことができない。」(パスカル、メモリアル1654年11月23日)

 受肉された神の御子キリストにおいて神を知るときに、私たちは神をただしく知ることができます。ただしく知るとは何かより多くの、あるいは新しい知識を得るという意味ではありません。そうではなく正しい知り方で、ふさわしい態度で神を知ることができるということです。

 神知識を正しく得たならば、そこには悔い改めと謙遜と感謝がうまれこそすれ、傲慢は生じるはずがないのです。そこには、認識と実践の分離がありません。傲慢がなく謙遜があります。知識と実践の分離がありません。一体です。

 ところが、単なる観念としての「神」を知るということは、その「神」についての概念を操作したり、体系的に組み立てたりするだけですむのです。神は不変である神は全能である神は遍在であるなどなどという観念です。しかし、その神の御前に、自分の生き方について選択を迫られるということはありません。現実に具体的に神を知るならば、私たちはその神の御前でどう生きるかということが問われます。神の御前に現実に置かれているある自分を認め、この神の御前にいかに生きるかということを、神を知ると同時に決断を迫られるのです。

 さきに将来の理想の夫を観念としてもっている女性は、生き方は変わらないといいました。けれども、ひとたび具体的に現実に彼女に一人の男性が「私は君のことをずっと愛してきました。結婚してください。」と言って来たなら、そうは行きません。彼女はもはや観念の世界に遊ぶことはできないのです。現実に、どのように生きるかを責任を問われるという事態になります。決断を迫られるのです。

 神がキリストにおいて一人の具体的なお方として、特定の時間に、特定の場所に、歴史の中においでになったということは、私たちに観念ではなく現実の神が、いわば、あなたに求婚しているという事態なのです。あなたは、この生きています現実の神の御前での決断を求められているということです。この具体的な歴史的現実の中に、御子が来られたということを私たちは『使徒信条』の中で告白するのです。「処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」

 みなさんは聖書を読む時、どんな書物を読むという意識で読まれますか。聖書は、だれか有名な作家が書いた小説や、あるいは、哲学者が書いた書物ではなく、あたかも、町の広報や新聞を読むような心積もりで読まれるほうが本質的に正しいといえないでしょう か。みなさんは、小説家の書いた『日本沈没』などという本を読んで、かりに、そこに横浜に1992年10月31日大地震がありますとあっても、それで引っ越ししようとは考えないでしょう。けれども、もし朝日・毎日・読売新聞に「今月末に横浜に大地震があることが、判明いたしました。避難してください。」とあり、町の広報にもそのように報道されたら、引っ越すでしょう。なぜでしょう。文学書は空想を、新聞は事実を伝えるものだからです。

「ことばは人となって私たちのあいだにすまわれた。・・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が神を解き明かされたのである。」ヨハネ1:14、18

 ヨハネは神が人となられた−−これは歴史の事実を報道しているのです。


(3)十字架と復活のことばの愚かさによって−−−高慢なる知性を打ち砕く−−
「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。」マタイ11:25

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊に属することは御霊によってわきまえるものだからです。」1コリント2:14

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・・なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」1コリント1:18

 これらの御言葉は、本質的に同じことを言っているのです。善悪の知識の木の実を食して以来、人間は「神のようになろう」とし自律を追い求めてきました。そして、強力な牙も爪も速い脚も持たない人間は、その理性をなによりの武器として生きるほかありません。この理性によって、もろもろの文明を作り上げてきました。この理性こそ人間の誇りです。人間は理性において神のようになろうとしたのです。この理性のうちに人間の傲慢は集約されます。それゆえ人は内的にせよ外的にせよ自然を通して、神を知ることができると、今度はその知識を誇るのです。

 神を知り、かつ、神を愛するためには、この高慢なる理性が打ち砕かれなければなりません。神は、そこで受肉と十字架と復活のみわざという、生まれながらの人間理性にとっては愚かなこと、不可解なことをもって、啓示をお与えになったのです。天地万物の創造主が、実際に歴史の中に人となってこられた。しかも、よりによって不潔な馬小屋に。神は栄光に満ちていらっしゃるはずなのに、このお方が十字架という恥辱の中で死なれた。死んだ者がからだと魂と霊をもってよみがえるなどおとぎ話の世界でしか通用しないようなばかばかしいことが、現実になされました。

 生まれながらの人間の理性は、この啓示を前にうろたえなければなりません。そんなこと常識ではありえない。そんなことは、納得できない。そんなことを認めたら、私の今までの価値観や世界観はどうなるのか。しかも、キリストが十字架にかかって死んだのは、私の罪のためだという。私の誇りはどうなるのか。私は、自分なりに正しい者として生きてきたつもりである。その私の人生を否定するのか。

 その通りです。否定するのです。人間の誇りを打ち砕くのです。

 理性において、倫理性において、誇りを打ち砕くのです。

 私は、あの十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」という祈りをされたキリストを心の目に見せられて、キリストを知り、神を知りました。イエス・キリストにおいて神を知るとき、私たちはこうして、いやおうなしに現実的・具体的に神に出会い、そして、理性の傲慢を打ち砕かれて神に出会うのです。

 私たちが真に神に出会うのは、時の中に受肉された永遠の御子の十字架においてです。