「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神。わたしを憎む者には、父のとがを子に報い、三代四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまでほどこすからである。」出エジプト記二十章
「ご先祖さまに申し訳ない。」という。けれども、実は、すでに世を去った先祖に対して私たちはなにもできない。世を去った人々は、向こうの世を支配する聖なる神の御手の中にある。生きているうちは施設に入れたまま、訪ねることもほとんどしないで冷たくあしらっておいて、死んでから高価な院号を贈り、黒御影の墓を建ててもなんの役にも立たない。生きている間にやさしく足腰さすってやるほうがずっと意味がある。孝行をしたいときには親はなし。孝行は生きているうちにこそである。
聖書に何十代にもわたる系図が書かれていることからわかるように、造り主なるまことの神は先祖をないがしろにせよと教えるわけでない。しかし、私たちが直接的な意味で責任があるのは、むしろ子孫に対してなのである。造り主である神の御前でのあなたの人生の選択が、子孫三代四代の呪いか、あるいは千代にわたる祝福かを決めることになる。だからむしろ「子孫に申し訳ない」と考えることが大事なのだ。
では、後世への遺産とはなんだろう。内村鑑三は『後世への最大遺物』で、つぎのように語った。第一に金という遺物である。ジラードという人には子どももなく妻も早く死んでしまった。彼は考えた。「妻もなし、子どももなし、私に人生の目的はない。けれども、世界一の孤児院を建てたい。」彼は一生懸命働いて生涯かけて二百万ドルばかりをためて、すばらしい二つの孤児院を建てた。金を遺物とせんとする人は、金をためる才能だけでは無駄になる。世のため人のために使う心も併せ持たねばならぬ。
金よりすぐれた遺産は事業。身近なところでは、浅科村の五郎兵衛新田の事業がある。彼が遺した灌漑用水路によって、江戸時代から今日にいたるまでどれほど多くの人々が糧を得、飢えを免れてきたことだろう。
さらにすぐれた遺産は思想である。今から三百年前、英国に体の弱い貧乏な名も知られぬ学者がいた。彼は絶対王政の時代にあって、個人は国家よりたいせつであるという思想を一冊の本に書いた。やがてこの本は革命をひき起こして、世界は民主主義の幕開けとなった。彼の名はジョン・ロック。
とはいえ金も事業も思想も特異な才能なくして遺せるものではないし、これらは後世の益になるともかぎらない。だが、志さえあれば誰でも遺すことのできる、そして、必ず後世に益となる最大遺物がある。それは、神を愛する勇ましく高尚な生涯である。今の世がいかに不正に満ち、大多数の人が利己的にのみ生きていようとも、神がこの世を支配したまうことを信じて神の御旨に従う信仰である。まことの神に立ち返り、それぞれの持ち場立場で、神のくださった隣人を愛することに自分の人生をかけることである。それは必ず子々孫々への祝福となる。千代にわたる祝福となる。
(通信小海92号より)