苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ピリピ3章8節後半と9節

「3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:8,9新改訳)


 新改訳では9節末尾に「という望みがあるからです」とあるのだが、「望み」にあたることばelpisはギリシャ語本文中にはない。文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳、新共同訳にも「望み」はない。「望み」という訳語を入れてしまうと、これが未来を指すという印象が強くなる。これはここにおける文脈上、救いの順序の理解のなかで整合的であろうか。
 「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つ」の末尾の「持つ」は分詞エイコーンである。「持つことによって」として、前の「キリストを持ち、キリストの中にある者と認められる」にかかると理解するのが適切ではないかと思う。
 そういうわけで8節の後半「それは・・・」以下の訳文は、むしろ、下記のようにしたほうがよいと思われる。
 「それは、私には、律法による自分の義でなくキリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神からの義を持つことによって、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められるためでした。」

 「キリストを得、また、キリストの中にある者と認められた」という根本的なインマヌエルの事実は、神からの贈与としての義によった。この信仰義認によるインマヌエルの事実に支えられて、パウロは未来に「死者からの復活に達」する望みをもちつつ、現在は「またキリストの苦しみにあずかることも知り、キリストの死にあずかる」ことさえも覚悟しつつ、ひたむきに前進してゆくのだと言っていると読みたい。

 神からの贈与としての義を受けたことによって、キリストの中にある者とされたという根本的な恵みの事実をキリスト者としてのスタートとし土台として、未来に復活の希望を抱きつつ、今はキリストの苦しみと死にさえあずかりつつ前進してゆく、これがパウロの言わんとするところではないか。