苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近現代教会史8 大戦後のエキュメニズム派の動向・・・20世紀(3)

 昨年大晦日にドイツ教会闘争を掲載して以来、少し間があいてしまいましたが、近現代教会史ノートの続きです。第二次大戦後のリベラル派の神学の動きです。

3.その後のエキュメニズム派の動向
−−「神の死」の神学、宗教多元主義、解放の神学―――

(1)「神の死」の神学と状況倫理
ガブリエル・ヴァハニアンは著書『神の死』(1961)において、自律的になった現代人はもはや神を必要としなくなっているという。だがヴァハニアンがいう「神」とは、欧米のキリスト教文化が作り出した人間が生きるための仮説としての「神」を意味しているのであって、聖書において啓示された絶対的他者としての神ではない。ヴァハニアンは人間が勝手に作った仮説としての神ではなく、絶対他者としての神こそ必要だと言った。
 しかし、ヴァハニアンの後に登場する「神の死」の神学者たちは、人間の自律を妨げる聖書に啓示された絶対他者としての神をも不要だという。T.アルタイザー、W.ハミルトン、P.ヴァン・ビューレンがその代表者である。神の死が語られるときに、しばしば引かれるのは、ニーチェのことばである。
「神の腐る臭いがまだ何もしてこないか?――神だって腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! それもおれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ? ・・・それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか? これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった――そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ! 」(ニーチェ「悦ばしき知識」125『狂気の人間』信太正三訳)
ニーチェにとって、神とは人間の隠れたところの悪を摘発し自由を妨げる邪魔な存在だった。人間は、そういう神を殺して自ら神々になり自由の実感に生きるのだという。
 ハミルトンとアルタイザーは『神の死の神学』という共著を成すほど親しい仲であり、両者とも基調はニーチェがいうような意味での「神の死」であったが、違いもある。ハミルトンは聖書研究によって史的イエスを知ることはできないと考え、アルタイザーは史的イエスを知りうるとする。ハミルトンは世俗社会に肯定的であるのに対して、アルタイザーは世俗社会に批判的である。ハミルトンは世俗社会を肯定しキリスト教を愛の倫理に解消してしまうから、19世紀の自由主義神学とさして変わるところがないが、アルタイザーは「神の死」は19世紀に完結しておらず、神は今も死につつあり、神の完全な死こそ歴史の終末だという。アルタイザーはヘーゲル弁証法を用いつつ、神の死の完結へのプロセスを説明する。絶対他者である神が人間に律法を付与したことが「正」であり、これに対して、人間は自律を求めて「反」として定立される。ところがキリストは律法を終わらせたので律法への違反としての罪はもはや存在しなくなった。キリスト後に生きる我々は律法の存在してはならない世界に置かれているのであって、律法という我々の行動を規制する枠を破って、具体的な状況に即した行動を選び取る決断をして生きていかねばならないとする。これが「状況倫理」である。「神の死」の神学者は死後の世界に対してはなにも期待せず、この世俗の世界で死によって限界付けられた今の生命を、自由に主体的に生きることに徹することを求める。
 (以上、野呂芳雄「神の死の神学」(『教義学講座3 現代の教義学』日本基督教団出版局、1974年所収)を参照)

ニーチェが主張し、神の死の神学者たちがその尻馬に載る奇矯なまでに強烈な人間の主体性に魅力を感じるニーチェ信奉者は多い。また大思想家の一人として奉られているために、思想の専門家たちの間にも、ニーチェを批判するにしても、一応なにか肯定的な前置きをしておかなければならないという決まりごとがあるような雰囲気がある。しかし、筆者がニーチェの末路を見ると、率直に言って、神に徹底的に背いた人の悲惨と異常なものを見るだけであって、共感はまったく覚えない。
 この種の主体性は、聖書の観点から見るならば、創世記4章に登場するカイン〜レメクの主体性であり、自らと周囲を滅びへと導くものにほかならない。神からの人間の自律と神の死を唱える生き方は、人間自らの生きる基盤と意味を見失わせて、かえって人間をロボット化し、自然環境をも破壊してしまった。

(2)宗教的多元主義
 宗教的多元主義の代表的神学者たちは、ジョン・ヒック、ポール・ニッターであり、わが国では小説家遠藤周作が『深い河』において宗教的多元主義への親近感を述べている。背景としては、世界に頻発する戦争、特に宗教戦争が人類と地球を滅ぼそうとしているという認識があり、また、産業革命以来の環境破壊で地球は危機的状況にあるという認識がある。こうした認識に立って、世界の諸国諸民族がたがいに融和するためにこそ、宗教は奉仕すべきであると考える。
19世紀のリベラルな神学者は、包括主義を唱え始めた。つまり、どんな宗教でも信じていれば、それなりにキリスト教の神に近づけるとした。だが多元主義者はそれでは生ぬるいとして、キリスト教の神にこだわることがまちがいだという。仏教でもイスラム教でもなんでもよい。信じれば、「真実在」に至りうるとした。「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の雪を見るかな」というのである。包括主義から多元主義への一歩を彼らは「ルビコン渡河」といって英雄的行為と自画自賛するが、異教世界に住む我々から見るならば、彼らは反対向きにルビコンを渡ったにすぎない。宗教的多元主義というのは、もはや汎神論的な異教であって、キリスト教ではない。大きく見れば、キリスト教界における宗教的多元主義とは、世界的な思潮であるニューエイジ・ムーブメントの現われのひとつに過ぎない。

(3)解放の神学 
第二バチカン公会議以降に、グスタボ・グティエレスたち、おもに中南米カトリックの司祭たちがリーダーとなった神学的運動を「解放の神学」という。背景には、ソ連と対決する米国が帝国主義的に中南米を収奪の対象としていることに対する不満がある。
 一例を挙げるならば、1954年グアテマラ大統領アルペンスが追放されたことがある。アルペンスは憲法に基づいて民主的な手続きを経て大統領となった後、すべての政党を合法化し、弱小な共産党をも認知し、農地改革を始めた。当時グアテマラでは3パーセント未満の地主が70パーセント以上の農地を所有していたが、アルペンスは自分の身内の土地を含む150万エーカーの土地を国有にして小作人に与えた。ところが大地主であった米国の大企業ユナイティド・フルーツは、グアテマラをずっとバナナ王国にしておきたかった。そこで、米国大統領はアルペンス大統領政権打倒指令を出す。CIAは首都を爆撃しアルペンスは国外に亡命した。その後に登場したのは米国の傀儡アルマス大佐である。以後、グアテマラの親米傀儡政権に抵抗する人々は、10万人が弾圧されて殺害された。
 米国には、反米左翼系政権の転覆をはかる親米ゲリラを支援し、親米傀儡政権に抵抗する人々を弾圧するために拷問法・尋問法・暗殺法などを訓練する「アメリカ陸軍米州学校」(U.S.Army School Of the Americas, SOA、別名暗殺者学校、現在、西半球安全保障研究所Western Hemisphere Institute for Security Cooperation, WHISCと改称)があり、親米軍事政権、親米ゲリラのえりすぐりを訓練してきた。米国は同様のことを南米諸国で行なってきた。ソ連が諸国の反米ゲリラを訓練していたのに対抗していたのである。
 こうした状況下で、司祭たちは、こうした民衆の中で解放運動を実践することが福音そのものであるとしているが、その理論はマルクス主義方法論による共産主義であるという批判を受け、指導者たちは暗殺されるケースも多い。ヘンリー・ナウエンがかつてかかわっていたと自著で述べている中南米の解放運動とはこういうものであった。解放の神学運動は、フィリピン、インドネシア東ティモール、ハイチなどでも展開されているが、バチカンからは拒絶されている。
 我々は、聖書的観点から、解放の神学をどう評価すべきだろうか? 一つは、キリスト教コンスタンティヌスのミラノ勅令以来、体制擁護のための御用宗教に傾いてきたことへの批判を受け止めるべきであろう。アウグスティヌスのドナティストの項目の「2−(2)、(4)」を参照されたい。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100821
 聖書はローマ書13章で国家の積極的意義を告げると同時に、黙示録13章では国家権力(第一の獣)の悪魔性を語り、悪魔化した国家の御用宗教化した教会は第二の獣(偽預言者)であるとも教えている。教会は上に立つ権威を尊重するとともに、国家というものの暗黒面を正しく認識して国家崇拝に陥ってはならない。だが、「解放の神学」がいう、「社会的解放イコール福音」という主張は、聖書の教えにかなっていない。福音によって救いに与かった者たちが、聖化の過程で社会的責任として社会的解放に携わっていくというのが聖書の教えであろう。いかにかかわるかについては、具体的な個々のケースによる。