苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

石愛ずる牧師夫人

 石が大好きな牧師夫人を知っている。先年夫君の荒井牧師が牧会から引退されて、ごいっしょに奥さんのご実家のある信州に移り住んでこられ、今は村の中で悠々自適の生活をなさっている。二年前、宮村先生といっしょに荒井先生をお訪ねした。もみじした美しい山々をドライブして行ったのだが、宮村先生は風景にはまったく関心を示さず、ひたすら聖書をメガネとした神学の話をなさる。到着すると、宮村先生は話したいことが山ほどあって荒井先生はフムフムと聞いていらっしゃった。宮村先生が9割話されて、荒井先生が1割。
 ところが、同席していた荒井先生の奥さんが、うずうずなさっていて割り込んで石の話を始められた。「私、母屋のほうに石をいろいろ集めています。村のほうで岩石博物館にしようということだったんですが、村の予算がどうのこうので話が流れてしまいそうです。あのぼろ家では、大事な石が盗まれはしないかと、心配で。・・・ご覧になりますか。」と目をきらきらさせておっしゃった。宮村先生は、「はあ・・・」と、いかにもその気がなさそうである。先生は、風景にも石にもまったく関心がない。私は宮村先生に助け舟を出そうという気持ちも出て、「石、私に見せてください。」と申し出た。私は多少ではあるが石に興味があるし、宮村先生の情熱的な聖書のお話は、すでにうちでも車中でも聞かせていただいた。宮村先生はほっとしたご様子で、また荒井先生に向かってお話を始められた。

 奥さんは、私を古い大きな母屋に案内してくださった。荒れてはいるが、石の配置などおもしろい庭だった。広い土間があって、上がると、中はとても暗くて部屋数はいったいどれほどあっただろう。石はどこかなと思ったら、奥さんは、縁側に面した大きな座敷の整理ダンスの引き出しから、次々に石を出してこられた。大きな石、小さな石いろいろである。水の入ったメノウであるとか、テレビ石、なんたら石、かんたら岩、ホニャララ石・・・(すみません、よくわかりません)。
 そういう数々の中でも、特別に不思議な焼餅石は面白いなあと思った。焼餅石(緑簾石)は火山岩で、緑褐色の塊で、これを割ると中にちょうど餡のようにガラスのようなキラキラする緑色の針状の宝石の粉が入っている。焼餅石というのは、うぐいす餡入りの焼餅みたいだからか。「饅頭の好きなうちの家内は喜ぶかなあ。でも小豆のあんこがすきなんだよな。それに食べられないといってがっかりするかなあ。」などと思った。
 この写真を掲載するのは二回目だが、よく見て欲しいのだが、この穴は、ナマコの化石だというおもしろい説がある。でも、奥さんはちがうだろうという見解である。というのは、専門家によれば、玄能石は凝灰岩の中には生成されず、泥岩の中にできるものなのだそうであるから、ナマコ説は魅力的ではあるがどうやら無理らしい。石は、なかなか奥深い世界である。
 この奥さんは若い頃から石が好きで好きで、牧師の妻という立場になられてからも、背中に赤ん坊をおんぶして、ハンマーとスコップをもって山に石を拾いに行っていたそうである。石についてのいろいろな講釈をうかがって、やー面白いなあと思った。石もおもしろいのだが、それ以上に、石が好きでたまらない人の存在がなんだかおもしろいと感じたのである。昔、『堤中納言物語』の中に虫愛ずる姫君という話を読んだことがあるが、石愛ずる牧師夫人は初めてだった。あとで石好きの山口君に焼餅石の話をしたら、うらやましそうにしていた。
 うまく説明できないけれど、筆者は石が好きというような人はなんだか高級な人物のような気がするのである。ただし、その石とはダイヤモンドとかサファイヤの類ではなくて、一見、ただの石ころのようなものに限る。自分は残念ながら、さほど石が好きではないのだけれど。でも、宮村先生は、石にも、美しい紅葉にもまったく関心を示されなかったなあ。また、別種の高級な人なのか。


*ちなみに、こちらは饅頭石。こちらのほうがおいしそう。写真は奇石博物館より。