正統主義に対する反動の一つは啓蒙主義であり、もう一つは敬虔主義運動である。
(1)シュペーナー(Philipp Jakob Spener、1635年1月13日 - 1705年2月5日)と敬虔主義運動(写真はweblio.jpより)
改革派正統主義においては常に正統教理とともに正統実践が強調されたのであるが、ルター派正統主義においては教理的知識のみを重んじる傾向が強かった。そこで、ルター派正統主義の形骸化に対するアンチテーゼが、その内部から生じることになる。フィリップ・ヤコブ・シュペーナー(1635−1705)に始まる敬虔主義Pietismus運動である。正統主義神学が今日の福音主義信仰の頭をなしているとすれば、敬虔主義運動は、現代の福音主義信仰の直接的な意味で心のルーツと言える。彼はルター派の牧師であるが、カルヴァン主義的な改革理念を抱き、神秘主義的なカルヴァン主義者やピューリタニズムなどの影響を受けて、本書の公刊によりルター派教会の改革を提案した。
シュペーナーが『敬虔なる願望Pia Desideria』 という書物において主張しているのは、聖書を教義の証拠本文の集成として読むのでなく、生活に密着したものとして読むべきだということである。正統主義は逐語的霊感を主張しているが、その霊感された聖書を事実上、まるで教義学的体系構築の手段のように扱っていた。シュペーナーもまた聖書の逐語的霊感を信じていたが、聖書を生活に密着したものとして受容することを目指したのである。
また、彼は正統主義では単なる題目に終っていた万人祭司主義を実践に移した。万人祭司主義は、すでにルターが新約聖書ペテロ前書に再発見して主張していたことであったが、ルター派教会では実際的には聖職者組織は特権的な位置を占めていた。これに対してシュペーナーは信徒が家庭において信仰教育や祈りに携わり、教会運営にも参加することを励ましたのである。1666年、フランクフルト・アム・マインのルーテル教会の牧師になった彼は教会の改革に着手し、堅信礼の確立などともに、互いに信仰を深め合う目的で信者が定期的な集会を開くことを提唱した。1670年に「コレギア・ピエタティス」(「敬虔な者の集い」の意)の名のもとに集会を自宅で始め、週2回集って、祈ったり聖書を読み合ったりした。「敬虔主義」の名はこれに由来する。
また、シュペーナーは正統主義の頭だけの信仰を批判し、「心の宗教」「内なるキリスト」、再生・聖化を強調して信仰生活における感情の機能も積極的に評価した。
さらに、彼は教理の純粋性は神学論争によってのみならず、敬虔な生活によって保たれるとした。正統主義が論争に明け暮れて悲惨な結果を残したことへの反省である。神学上の問題をあつかうにあたっては、「根本的必然的なことがらにおいては真理と一致を、根本的必然的でないことがらにおいては自由を、そしてすべてのことにおいて愛をもって当たらなければならない。」この原則は、今日でも重要な点であろう。
正統主義では説教壇が学識やレトリックの開陳の場のようになっているきらいがあったが、シュペーナーは、説教は主のみことばを素朴かつ力強く語り告げ、滅び行く魂を救い、眠れる魂を目覚めさせるものとした。
敬虔主義については、反知性主義・体験主義・主観主義であるという点で、教義学を重んじる人々からは批判的に見られる傾向がある。また、義認よりも再生者としての禁欲生活を重んじる点では、隠れた律法主義に陥っているのではないかという疑念も抱かれるようである。かつて、ルターがアナバプテストの律法主義的傾向について、ローマとアナバプテストはしっぽのつながった二匹の狐と言ったそうだが、同種の批判が敬虔主義に向けられた。
こうした批判は無意味なことではないだろうが、<教会の改革(教会のしるし)>という観点から、筆者には異なる考えをもっている。16-17世紀の宗教改革者は真の教会の最小限のしるしとして、福音の説教と聖礼典の二点を挙げた。彼らが求めたのが、自分たちの改革運動は分派の罪ではなく、真の教会の回復という正当なものであることを証明するためのものだった。だがこの二点は教会が教会であるための必要最小限ではあっても、必要十分ではなかった。敬虔主義運動は、これらに加えて、信徒の交わり、祈り、そして伝道を回復して初代教会にあった必要十分な教会のしるしを回復したと評価することができるのではないだろうか。
「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:40,41,42)
(2)ジョン・ウェスレーJohn Wesley (1703−1791)と福音主義運動(写真はgokyo.ganriki,netより)
ウェスレーの回心と実践の生涯はなかなか劇的で興味深いものがある。ウェスレーについて本格的に学びたい方には、藤本満『ウェスレーの神学』(福音文書刊行会1990年)がお奨め。ウェスレーは体系的著作を遺していないので、彼の神学思想の全貌を知るには、遺された日記やパンフレットを調べなければならないが、本書はそういう基本テキストをみごとに整理しており脚注も完備されている。彼の生涯とメソジスト運動の概観がていねいに序章で扱われ、神学的諸課題はそのあとウェスレーのテキストを13章にわたって主題別に編纂してある。
*スタート
大陸で敬虔主義が盛んだったこのとき、英米では福音主義の信仰覚醒運動が起こった。ジョン・ウェスレーはオクスフォード大学の学生だったとき、ホーリークラブを作り、友人たちと規律(メソッド)ある生活をした。このことから、メソジストとあだ名される。
1735年、彼は、その熱心から新大陸の原住民伝道を志して渡米するが、成果を得られないまま失意のうちに帰途につく。そのとき行きの船で、荒海を木の葉のように揉まれる船の中で、不安にふるえて自分は死の準備ができていないことをひしひしと感じていたとき、同船しているフス派モラビア兄弟団の人々の持つ揺るがぬ平安と喜びに触れて衝撃を受ける。
「船の中では規則正しく朝の4時に起きて5時までそれぞれ祈祷をする。5時から7時まで注意深く聖書を研究した。7時に朝食、8時に公祷、9時から2時まで自分はドイツ語またはギリシャ語を勉強した。・・・ところが、暴風が襲ってきた。船の動揺と風の音のために目が覚めた。まだ死にたくなかったので、死の準備が出来ていないことがよく分かった。その暴風は2度3度とあり、船はさきに進まなかった。第3の暴風が始まった。4時頃には、これまでよりはるかに激しくなった。7時にわたしはドイツ人たちの所に行った。わたしは以前から、彼らの行動の極めて真面目なことを見ていた、・・・今や彼らが誇りや怒り復讐と同様、恐怖の念からも解放されているか否かをためす機会が来たのである。礼拝の初めに詩篇を歌っている最中に波が荒れて船にかぶさり、甲板の間に流れ込み、あたかも海底深く飲み込まれてしまったかのようであった。イギリス人のあいだにすさまじい悲鳴があがった。ドイツ人たちはいとも静かに歌い続けた。後でわたしはその一人に『恐ろしくなかったのですか』と尋ねた。かれは「有り難い事に、少しも恐ろしくありません」と答えた。『女の人たちや、子供たちは恐ろしくなかったのですか」と重ねて尋ねた。彼は穏やかに「いいえ、女も子供も死を恐れていません』と答えた。」(日記)
後に彼はモラビア派から多くを学ぶことになる。
ただウェスレーの敬虔がモラビア派とちがうのは、モラビア派は静寂主義的だったが、ウェスレーの敬虔はダイナミックなものであったという点である。1738年5月24日午後9時15分ころ、アルダスゲイト街で朗読される、ルターの『ローマ書序文』を聞いていて福音的回心を経験する。それまで彼は戒律主義的であったが、罪の深い自覚のなかで信仰による義を得た瞬間、信仰義認すなわち恩寵救済への目覚めである。
「はなはだ気は進まなかったが、アルダスゲート街の教団の集会に出た。丁度一人の人がルターのロマ書序文を読んでいるところであった。9時15分頃、神がキリストを信じる信仰を通して心にもたらしたもう変化を述べているとき、わたしはわが心の奇しく燃ゆるのを覚えた。わたしは自分がキリストを信じ、キリストのみ救いを与えたもうことを、ひしひしと感じた。また神が自分のような者の罪をさえ取り除いて、罪と死から救いたもうたことの確証を与えられた」。(『ウェスレー日記』から)
以後、ウェスレーはその人生を「できるかぎり、生きた実践的なキリスト教を広め、できるかぎり多くの人々の魂の中に神のいのちを生み出し、それを保ち増し加える」ためにささげることを決心した。彼は体系的な神学的著述ではなく、滅び行く魂に福音のいのちを伝えることのために召された伝道者であった。
*メソジストと社会奉仕
理性の力を信じる哲学は古代ギリシャの時代からあり、もっと言えば、アダムが善悪の知識の木の実を取って食べたときから、人間は神をないがしろにして理性の力で自律しようとしてきたのであるが、それが工業力と巨大な資本力をともなって世界を動かし始めたのは産業革命が起こってからである。産業革命The Industrial Revolutionということばを初めて用いたのは、1837年ルイ・オーギュスト・ブランキが初めてである。産業革命は1760年から1830年にイギリスで起こった現象であるが、次々にベルギー、フランス、アメリカ、日本で同じように起こった。イギリスにおいて最初に産業革命が起こったのは、海外に広大な植民地を持っていたからである。
産業革命(第一次1760−1830)によって生産力が爆発的に伸び、農村地帯では羊毛生産が金になるということで地主がそれまで小作民が入り合い地として自由に利用・耕作していたところを囲い込んでしまったので、小作民たちは生活の糧を得ることができなくなって、仕事と糧を求めてロンドンをはじめとする都市に移動した。都市では生活困窮者によって人口が爆発的にふえ、スラム化が起こり、治安が悪化した。救世軍のブースによって「最暗黒のイギリス」と呼ばれたことである。伝統的国教会はこうした状況に対して手をこまねいており、激増する人口に対して教会の座席はまったく不足していた。
1739年ウェスレーはブリストルで野外説教を始めて、人々の必要に答え、さらに福音を伝えると同時に、回心した人々の生活の改善のためにソサエティと名づけたいくつかのグループに弟子たちをわけた。やがてソサエティは大きくなりすぎたので、これを11人の構成員と1人の指導者からなる「組会」に分けた。組会は毎週集って聖書を読み、祈り、信仰のことがらについて語り合い、基金を集めた。この運動がメソジスト運動を呼ばれる。メソジスト運動は急速にイングランドに広がった。ブリストルの司教がウェスレーの巡回説教が各地の教区を混乱に陥れていると批判したとき、彼は「世界がわたしの教区であるI look upon the whole world as my parish.」と答えたという。ただしウェスレーは生涯英国国教会の聖職であり、新しい派を立てようとはしなかった。
ジョン・ウェスレーは個人の回心と信仰を強調しつつ、再生した者の実践として社会奉仕が結び付けられた。貧者や社会的弱者の救済、少年労働の禁止、牢獄の改革、奴隷制廃止、教育改革といったことが、福音主義の流れからでてきた。しかも、これらは最終目標ではなく全人的な救済の一環なのである。日曜学校協会、聖書協会、トラクト協会、YMCA,YWCA,救世軍などの内国伝道団体が誕生していった。
他方、米国ではジョナサン・エドワーズ、ホイットフィールドがカルヴァン主義に立ち、かつ人間の感情や意志を重んじる実践的なキリスト教を新大陸に広げた。エドワーズ(1703−1758)は米国における最大の神学者・哲学者であるとされているが、こうした方面については日本人はドイツやフランスを好み、新興国アメリカを軽んじるので、日本ではほとんど知られていないというのが実情である。エドワーズの『宗教感情論』ほか三作品が「<葡萄の実>翻訳ミニストリー」で公開されている。
*共産主義の出現とキリスト教会の社会的実践からの後退
次の19世紀中葉、資本主義による社会的不平等を集成しようとするキリスト教的社会奉仕を欺瞞であり、「宗教は人民のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学序説』)と非難して、共産主義革命によって社会は抜本的に改められるべきであると主張したのがK.マルクス(1818−1883)であった。
マルクスが卒業した高校の校長は熱烈なルソー信奉者であり、マルクスの卒業論文は「労働生活は果たして幸福か」であった 。やがて福音主義キリスト教会は、共産主義運動の急速な広がりに警戒して、社会奉仕・社会的責任から撤退して狭い意味での伝道に自らの働きを限定するようになっていく。福音主義が社会的責任に再び目覚めるのは、1974年スイスにおけるローザンヌ伝道会議を待たねばならない。