苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

マリヤは疑ったのか? ルカ1:34

 新改訳聖書アドベントのマリヤへの受胎告知の箇所を見ていたら、これはいかがなものかと思われる翻訳に二点気づいた。第一点は、ルカ1:34「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」である。この翻訳のニュアンスではマリヤは受胎告知を受けて御使いのことばを信じなかったように読める。はたして、そうなのか? 第二点は、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)である。本節には、ギリシャ語では、「ことば(レーマ)」ということばが入っているのに、ここで訳出していないのはどういうわけか?今日はまず一つ目を。

 日本語の新改訳以外の翻訳聖書を見ても、マリヤは受胎告知を受けて、そんなことはありえましょうか?という強い疑い、つまり不信のニュアンスをこめて訳されている。

 新改訳 「どうしてそのようなことになりえましょう。」
 文語訳 「如何にしてこの事あるべき」
 口語訳 「どうして、そんな事があり得ましょうか。」
 塚本訳 「どうしてそんなことがありましょうか。」
 前田訳 「どうしてそんなことがありえましょう」
 新共同訳「どうして、そのようなことがありえましょうか。」

 マリヤは受胎告知を受けて、御使いのことばのいうことなどありえないことだと不信をもって疑ったのか。まず、ギリシャ語本文を見てみよう。ギリシャ語本文では「ポース(how)・エスタイ(will be)・トゥート(this)」となっている。つまり、ポースは「なぜ」ではなくて、「どのように」を意味している。また、「あるべき」「ありえましょうか」といった不可能を意味することばもこのギリシャ語本文にはない。単純に、「どのような方法で、このことがあるのですか?」と質問しているのである。(ちなみに日本の古典文法では助動詞「べし」は打消しと疑問の文脈では「可能」の意味となる。)

 次に、前後の文脈からもマリヤが御使いのことばを「ウソッ、信じられない。ありえない。」という感情をこめて質問したととるのは不合理であると思われる。御使いガブリエルが、ザカリヤに神のことばを告げに行ったとき、ザカリヤはそれを信じなかった。そこで、ガブリエルは次のように告げた。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことば(ロゴイス)を信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」(ルカ1:19,20)
 その6ヵ月後、御使いはマリヤに受胎告知した。受胎したマリヤは、ザカリヤの妻エリサベツのもとに行くと、エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(1:45)とマリヤを称賛し祝福している。それは、御使いのことばを信じないで口が利けなくされた夫ザカリヤと比較してのことばと読むのが自然である。マリヤもまた御使いガブリエルのことばを信じなかったならば、口が利けなくなってエリサベツを訪れることになったかもしれない。そしたら、マグニフィカート(マリヤの賛歌)も誕生しなかったわけだ。
 というわけで、ルカ1:34は次のように訳すのが正確であると思われる。

そこで、マリヤは御使いに言った。「どのようにして、そのようなことがあるのでしょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」