苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

つまずきの石

マルコ6:1−6
2016年9月19日 苫小牧主日朝礼拝

6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。
 それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

1.つまずき

 神学校での三年間ないし四年間の集中的な学びが終わり、卒業後の道がそれぞれに決まろうとするころ、中には母教会に呼び戻されてその教会の牧師や伝道師に着任することになる人がいます。そういう神学生たちは、「預言者は故郷では尊ばれない」というみことばを思い出して、不安になったりするのです。たしかに、主イエスでさえ、故郷では尊ばれない経験をなさり、5節を見れば、「何一つ力あるわざを行うことができなかっ」たのですから、まして神学校でたての自分に務まるだろうかと思うのは当然です。
 ナザレの人々がつまずいたことの問題はむろんイエスにあるわけではありません。問題は、6章6節にあるとおり、彼ら主イエスを迎えた人々の不信仰でした。主の祝福を受け取るには、それを受け取る手としての信仰が必要なのだということです。
 主イエスが久しぶりに故郷ナザレの安息日の会堂に入ると、そこには近所のおじさんやおばさんや幼馴染ばかりでした。このときに開いたみことばはルカ伝の平行記事によると預言者イザヤの書でした。

「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
捕らわれ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18,19)
そして、主イエスはいいました。「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)

 人々は教えを聞いて驚きました。そのことばが権威に満ちていたからです。ところが、ある人々は文句を言い始めました。マルコ6章3節には「彼らはイエスにつまずいた」と書いてあります。「つまずく」というのはギリシャ語スカンダリゾマイということばで、これは今よくいうスキャンダルの語源となっていることばです。たとえば、あの俳優はなかなか誠実そうな人だと思っていたら、女性問題が発覚してナーンダとがっかりしてファンが離れて行く。こうした事件をスキャンダルと今では用いるわけです。「みなあの俳優につまづいた」というわけです。
 聖書でいるスカンダリゾマイというのは、受け身でのことばです。「つまずく」というのは「つまずかされる」ということなのです。たとえば、私たちが歩いていてつまずくのは、そこに石ころとか、木の根っことかがあって、それにつまずかされるわけです。
けれども、同時につまずくのは本人が自分の責任でつまづくのでもあるわけです。小さな石ならばポンとけっとばせばよいわけですし、大きな木の根っこならばよければすむことです。それをわざわざぶつかってひっくりかえったりするのですから、本人の責任でつまずいたということでもあるのです。受け身でありながら、能動的でもあるということは「つまずく」ということの本質をよく表していると思います。


2.彼らがつまずいたわけ−−−傲慢とやっかみ

 聖書では、この「つまずく」ということばが出てきますが、これはつまずかせる者が悪いという場合と、つまずく側が悪い場合と二通りがあります。つまずかせる側が悪いというのは、たとえば、小さな子どもをイエス様から遠ざけようとすることによるつまずきです。イエス様は、この種のつまずきを与える大人たちには非常にお怒りになられて、「この小さな子どもにつまずきを与えるような者は、首に石臼をつけられて支笏湖にでも沈められた方がましだ」と言われるほどです。
 ですが、きょう読んだ箇所は違います。この場合は、イエス様につまずいたナザレの人々の側に問題があったのです。彼らはイエス様につまずいたあげく、なんとイエス様をがけから突き落として殺そうとまでしたとあります。
 彼らは2節に見るように、主イエスのなさる「力あるわざ」を見たのです。また、その権威ある教えも聞いたのです。「彼らは見るには見るが、見えず、聞くには聞いたが聞こえなかった」のです。つまり、肉眼は見ているけれど、心の目は閉じている。肉の耳は聞いているけれど、心の耳はとざしたままだったのです。今朝、私たちは、イエスにつまずいたナザレの人々を反面教師として学ぶことになります。
 何が彼らの心の耳を閉ざし、心の目を閉ざしてしまったのでしょうか。何が彼らの不信仰の原因だったのでしょうか。主の故郷の人々は言いました。「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。」「こいつは大工だぜ。」正規に律法の教育を受けたわけでもなければ、肩書きもないじゃないかといいたいのです。そういう学歴と肩書きを持たないので、イエスを拒否したのです。そのうわべを見て、肩書きを見てイエスの言うことには耳を傾けなかったのです。「人はうわべを見るが、主を心を見る」とありますが、彼らはまさにそうでした。「うわべしか見ない」ことによって、彼らはイエスにつまずいたのです。
 また、「私たちはイエスのことは鼻たれのころからみんな知っている。その家族だってみんな知っているんだ。」と思った時、彼らはイエスにつまづいたのです。救い主メシヤと信じられなかったのです。
 彼らは主のことばに驚きもし、そのわざを見ることもしました。頭では、イエスにおいてイザヤのメシヤ預言が成就したとわかりはするのです。しかし、理屈ではそうだと思っても、彼らの感情が信じることを拒ませるのです。「信じられない」という場合、人は論理的な理屈をいろいろつけたがりますが、実際には信じない理由は、感情的なものであるばあいが実は多いのです。知性は、感情によってコントロールされてしまう弱弱しいものです。ナザレの人々がそうでした。彼らはたしかにイエス様の教えが、力ある教えであるということは認めました。そして、それを裏付けするイエス様の力ある数々の奇跡も見たのです。知的には、認めざるをえませんでした。けれども、彼らはイエス様を神の御子として受け入れませんでした。なぜでしょうか。イエス様に対するやっかみがあったのでしょう。「鼻たれ小僧のころから知っているイエスになんかに教えてもらいたくもない」という感情があったのでしょう。「大工の小せがれなんぞに教えてもらいたくない」という感情があったのでしょう。
預言者が尊敬されないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけです。」 遠くエルサレムからやって来た大学者先生には教えられやすいけれど、身近な人から教えてもらうということは、むずかしいことなのでしょう。なぜでしょうか?傲慢だからです。

3.神があえてテストをした

 この人々はやっかみやねたみという感情や、傲慢さのゆえに、自分でつまずいたのですが、実は神様御自身がつまずかせたのでもあるのです。神様は、あえてつまずきの石を彼らナザレの人々の前に置いたという面もあるのです。

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼するものは、失望させられることがない。」(イザヤ28:16→ローマ9:33)

 とあるとおりです。
こうしたつまずきはは、本質的には、ナザレの人々だけでなく、神様がキリストにある救いを人の前に提供されるときにかならずお与えになるテストなのです。神様は、救いの良い知らせを、傲慢な者、うわべの肩書きしか見ない者にはお伝えにならないのです。砕かれた者、遜った者、偏見なしに耳を傾ける人にしか神のことばは伝わらないのです。

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者にはかくして、幼子たちに表して下さいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25、26)

 「幼子」とは、偏見なしにみことばに耳傾ける者、神の前に自分の罪と無力を認めたへりくだった者です。幼子にとっては、肩書きの立派なエルサレムの大先生であるかナザレの大工でるかは関係ありません。その人の口から出ることばが真実かどうかがすべてです。
 神がイエス・キリストにおいて人となって来られたこと、そして、十字架にかかって辱めを受けて私たちの罪をになってくださったことには二重の面があります。一つには、神様の救いをへりくだった人々、幼子には明らかにすること、そして高ぶっている者に対してはそれを隠してしまうことです。
練馬で伝道していた時代のことなのですが、最近奥さんだけクリスチャンになったご家庭でバイブルクラスをしたことがあります。わたしはその日、ちょうど「だれでも子どものようにならなければ神の国に入ることはできない」という所からお話をしました。入門者向きにやさしくイエス様のお話をしたのです。そこにご主人Yさんも参加してくださいました。Yさんは戦前東大工学部を出て海軍の技術将校をし、戦後はある大企業で部長をしていたそうで、当時は、すでに退職されていました。そのときはニコニコと聞いていらしたのですが、Yさんはあとで奥さんに言ったそうです。「牧師はなんであんな、幼稚なわかりきった話をするのか。人をばかにしている」と。
何がここで起こったかわかりますか?奥さんは「少しインテリ向けの配慮をしほしかった」というようすでした。けれども、私は神のことばは恐ろしいものだと思いました。まさに、イエス様にこの紳士はつまづいたのです。紳士は理屈としては天国は遜った者の国であるということはわかっていたのです。分かっていたから「わかりきった話だ」と思ったのです。けれども、本当にはわかっていなかった。本当にわかっていたら、「わたしは傲慢でした。」といって悔い改めたでしょう。でも本当にはわかっていなかったから、まさに主イエスがおっしゃったことばの通り、つまずいてしまったのです。「これらのことを、賢い者や知恵ある者にはかくして、幼子たちに表して下さいました。」幼稚な、わかりきったような、愚かしいようなことばに、紳士はつまずいて、その結果、神の御国に入れなかったのです。「だれでも遜って子どものようにならなければ神の国に入ることはできないのです。」もっとも、Yさんはそれから十年ほどかかりましたが、悔い改めてイエス様を信じ数年たって天に召されました。

 十字架のことばは滅びに至る人々にはおろかなのです。

1コリント1:17−25
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。
  「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
  賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 自分の罪を認めた者にとっては、神の御子の十字架以外には救いの手だてはないことがわかるのです。自分の弱さを徹底的に知らされた者には、主の復活の力の外にはたよるべきものがないのです。

まとめ
 「自分はわかっている」と思うとき、私たちは「十字架のことば」につまずきます。聞く耳がないからです。しかし、「ああ、わたしは謙遜そうに振舞いながら、実は、傲慢でした」と砕かれるときに、十字架のことばがわかります。イエス様の救いのありがたさに感動します。
 心砕かれ、低くなると、私たちはいろいろな人から学ぶことができるようになります。妻からも子どもからも、ありんこからも学ぶことがあります。
 私の罪のためにイエス様は十字架に死に、私がゆるされるためによみがえられた。この単純な十字架のことばを受け入れることができるのは、砕かれた単純なたましいのみです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17