昨日、NT.ライトの救いの理解の問題を取り上げ、それは十分に聖書的ではないと書いたので、それと関連して、聖書の言う「救い」について述べておきたい。
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「救い」を意味する用語としては、ヘブル語では「イェーシュア」が、ギリシャ語では「ソーテーリア」が代表的である。ヘブル語「救うヤーシャー」の中心的概念は「圧迫者から解放する」であり、ギリシャ語「救うソーゾー」のそれは「危険から解放する」である。このように「救い」とは、圧迫や危険が何であり、どういう状態に導かれるかが具体的に提示されて初めて、たとえば「病苦からの解放され、健康が与えられる」などと内容を得る。われわれが聖書における「救い」の思想を理解するには、必ずしもそこに「救い」という用語がなくとも、<神がその民を何から解放し、何を与えようとされるか>を把握することが肝要である。
1.旧約聖書において
「救う(ヤーシャー)」という語自体は、出エジプト以降(出エジプト14:13)、「ミデヤン人の手から救った」(士師8:22)、「ペリシテ人の手から救う」(Ⅰサムエル9:16)、などと贖罪とは直接的関係ない場合に多用されているが、「神との交わりが失われた原因は罪にあり、回復のためには贖罪が必要である」という思想は創世記のアダム堕落直後の記事から示されている。
アダムは本来、神からいのちの息を吹き込まれて(創世1:7)、神のかたちにしたがって創造され(創世1:26,27)、神との交わりのうちに生きる者であった。
ところが、アダムは善悪の知識の木の戒めを破る罪を犯したことによって、神と共に過ごしたエデンの園から追放された。神に背いたとき、アダムは「いのちの息」を失って、神のかたちを毀損し、神と交わりえない状態になったものと推察される(詩篇51:11参照)。ゆえに、救いとは、逆に神なき世界からエデンの園への帰還、つまり<神なき状態から、神と交わりうるものとして回復されること>を意味しており、これにはひとたび失った「いのちの息」を受けて、毀損した神のかたちを新たにされることが伴わねばならない。
また蛇への呪いの中で、蛇の子孫の頭を踏み砕く「女の子孫」の到来が告げられたことからいえば、救いとは<サタンの支配からの解放>と表現され、また、神の呪いが対人関係の不和に及んだことからいえば、救いとは<対人的不和からの解放>であり、さらに、神の呪いが人間と被造物との不和に及んだことからいえば、救いとは<被造物との不和からの解放>である。さらに、神はアダムに死を宣告されたので、救いとは<死からの解放>を意味する。
ゆえに、創世記3章によれば「救い」の主題は<神なき状態から解放され、神の民として神と交わりうるものとして回復されること>であり、これには「いのちの息」を受けて神のかたちを回復されることと<サタンの支配・対人的不和・被造物との不和・死>からの解放が付随すると総括できよう。
<神なき状態から解放され、神の民として回復される>という救いの主題は、その後、啓示されるアブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約に一貫する主題、<あなたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる。>と合致している。アブラハム契約には「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」(創世17:7)とあり、シナイ契約には「わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(出エジプト6:6,7抜粋)とあり、ダビデ契約には「 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」(第二サムエル7:13-14抜粋)とある。
しかも、神なき状態から神の民として回復されるためには、まず罪の贖いが必要であるという原理は、創世記3章にすでに見られる。アダムはいちじくの葉で裸の恥を覆おうとしたが、神はそれに代えて獣の血を流して皮衣を作って彼らを覆われたという出来事には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)という贖罪の原理が暗示されている。ここに贖罪の原理を認めてこそ、彼らの子カインとアベルのささげ物をめぐる事件が理解できよう。ノアの礼拝にも祭壇でのいけにえが伴っていたし、アブラハムの礼拝にも祭壇での血を流す犠牲が伴っていた。そして、レビ記において贖罪儀礼が明確かつ精密に規定されることになる。
レビ記には贖罪儀礼が詳細に規定され、その後、贖罪儀礼は、ダビデ以前は幕屋で、ソロモン以後は神殿祭儀で行なわれていく。異教の偶像が持ち込まれて、神殿祭儀が内実を失い形式主義化した王国時代に、預言者たちが繰り返した中心的使信は、「あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。」(ホセア14:1)であり、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:18抜粋)であった。罪の悔い改めを求め贖罪を告げる預言者たちの使信は新奇な教えではなく、かつてモーセを通じて啓示された律法に基づく教えであった。
以上のように、旧約聖書は、時代により表現形式の多様性はあるにしても、救いとは、<神なき状態から解放され、神の民とされる>ことであり、その<神なき状態からの解放のために贖罪が必要である>ことを首尾一貫して啓示している。そうした救いと贖罪に関する啓示の集約、またメシヤ到来を告げる曙光として、神は預言者イザヤを通して「苦難のしもべ」の啓示を与えられた。すなわち、来るべき救い主は、人類の罪の罰を担う贖罪主であることが明らかにされたのである(イザヤ52:13-53:12)。
さらに、メシヤの到来によってもたらされる新しい時代の救いには、神の霊の注ぎによる内的な新生が伴うことが預言者エレミヤ、エゼキエルによって預言される。すなわち、来るべきメシヤは、まず贖罪によって神との法的関係を正常化した上で、神の民の内に神の霊を注ぐことによって、神とのいのちある交わりをくださるのである。神の霊の注ぎによって旧約時代には石の板に刻まれた外的なものであった律法は、民の心に記されることになり(エレミヤ31:33)、神に対してかたくなな「石の心」は、やわらかい「肉の心」となると予告された(エゼキエル11:19)。しかも、神の霊の注ぎは預言者・祭司・王といった特別な職務につく者にのみ注がれるのではなく、すべての神の民に注がれるとヨエルは預言した(ヨエル2:28,29)。これは、創造のときに神が人のうちに吹き込んでくださった「いのちの息」の回復であると解される(創世2:7)。来るべきメシヤは、贖罪によって、人を神なき状態から解放して神の民とし、かつ神の霊の注ぎによって、神の民として生きる力をくださるのである。
2.新約聖書において
新約聖書は、「救い」の中心は<罪から解放されて、神とともにある生にいたる>ことであることを一層明確にする。マタイ福音書巻頭では、天使はヨセフに神の御子の受肉について「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21抜粋)と告げ、イザヤの預言「その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。」が引用されているとおりである(同1:23抜粋)。マルコ福音書では、キリストはご自分が贖罪のために来られたことを明確に告げている(マルコ10:45)。ルカは、罪の赦しが救いの核心であると巻頭で述べ、巻末で確認している(ルカ1:77;24:47)。キリストに出会った多くの人々には罪の赦しが宣言され、それには病苦や悪霊をはじめとする苦悩や、時には死からの解放までも付随している。
また、福音書はいずれも旧約時代最後の預言者バプテスマのヨハネが、来るべきメシヤを紹介するにあたって、メシヤは聖霊のバプテスマを授けると告げていることにも注目すべきである(マタイ3:12、マルコ1:8、ルカ3:16)。聖霊の注ぎは、創造論との関連で言えば、失われた「いのちの息」の回復すなわち毀損した神のかたちの再創造を意味しおり、預言者エレミヤやエゼキエルやヨエルによって予告されていた。その聖霊は、ペンテコステに老若男女を問わず神の民に注がれて、預言は成就した(使徒1:8;2:1-21)。この普遍的な聖霊の注ぎこそ世界宣教を実現可能にした画期的出来事であって、実際、エルサレム教会が迫害されて散らされたときには、使徒たちは弾圧の激しくなったエルサレムに留まって地下教会を守る一方で、信徒すべてがキリストの証人として散らされた先々でキリストの福音を宣べ伝えたのであった(使徒8:1-4)。
パウロもまた「救い」とは、まず罪からの解放であると告げている。キリスト者はまず律法によって罪を自覚させられ(ローマ3:20)、キリストの贖いを根拠とし、キリストを信じる信仰によって、神の前に義と宣言されて神との平和を持ち(ローマ3:21-30;5:1)、律法の呪いからも解放されたものである(ローマ7:1-6)。こうして神との正常な立場に置かれた者に、神は「いのちの息」である御霊の初穂を与えてくださった(ローマ8:23)。神の民は聖霊の働きによって、エレミヤ、エゼキエルが告げた預言のように、実質的にキリストに似た品性すなわち御霊の実を結ぶ者へと変えられていく(Ⅱコリント3:18,ガラテヤ5:22,23)。これはすなわち、失われた神のかたちの新たな創造である(エペソ4:23-24,コロサイ3:10)。また聖霊は、御子の御霊とも呼ばれ、アブラハム契約に基づいて神の民を奴隷ではなく神の子ども、すなわち世界の相続人としてくださるので(ローマ4:13-16,同8:14-18)、神の民は世界の相続人として新天新地の栄光を待望しつつ、アダムの堕落に伴って虚無に服した被造物のうめきにも耳を傾けて、その回復・保全にも務める任務がある(ローマ8:18-25)。また、悪魔との関係についていえば、パウロは、キリスト者の戦いは悪霊との戦いであり、キリストは我々をサタンの暗闇の圧制から解放してくださったと告げている(エペソ2:2;6:11,コロサイ1:11)。
ヨハネ文書は、闇に閉ざされた「この世」に、光である神の御子が受肉されたことを告げる(ヨハネ1:1-18)。キリストは受難の後に復活し(ヨハネ20:1-21:14)、昇天・着座の後、ご自身に代わるもうひとりの助け主である聖霊を送られた(ヨハネ14:16-26)。聖霊によってキリスト者は御父と御子との交わりに生きることができる(ヨハネ14:20)。黙示録が啓示する再臨のキリストは、サタンを最終的に滅ぼし、全被造物を贖って新天新地をもたらし、復活した神の民に対して、「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(黙示録21:7)と宣言される。
これはアブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約から一貫してきた主題の究極的成就を告げることばであり、失われたエデンの園での神との交わりの回復、いな回復以上のことであって、アダムが善悪の知識の木における試みに勝利したならば与えられるはずであった完全な祝福を意味している。新天新地のいのちの木は、一本ではなく、並木をなしていると表現されていることは、新天新地がエデンの園の単なる回復ではなく、完成であることを意味している。新天新地は、神と小羊との御座からいのちの水の川が流れ出て常に潤されているが(黙示22:1,2)、いのちの水の川とは聖霊にほかならない。今の世にあって神の民が受けた御霊は初穂としてのものであるが、かの日には今は虚無に服してうめいている全被造物が御霊に潤されて回復することになる。神の民は、三位一体の神との交わりのうちにあって、この新しい世界を治める王となる(黙示22:3-5)。
結論
以上のようにキリストが賜る「救い」の核心とは、アダムの堕落以来の<罪ゆえの神なき状態から解放され、神の民とされること>であり、それは、キリストの贖罪によって神と人との関係が回復され、御霊によって毀損した神のかたちを新たにされることが伴う。その完成である新天新地においては、サタンの支配からの完全な解放、対人関係の不和からの解放、被造物との不和からの解放としての新天新地、死からの解放としての復活が付随している。神の民は、原理的にはキリストにあってすでに救われた者として、やがてくる新天新地における救いの完成を待ち望みながら、今現在、御霊の力によって救われつつあるものなのである。(聖書神学事典「救い」より。筆者が担当)