苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史32 中世の神学 スコラ哲学(7)ドゥンス・スコートゥス

8.ドゥンス・スコートゥス(Johannes Duns Scotus1264or65or74-1308) 
精妙博士doctor subtilis――――普遍実在論主意主義
ドゥンス・スコートゥスは若くしてフランチェスコ修道会に入り、司祭となり、オックスフォードで学んだ後、パリに遊学、イギリスとフランスを何度か行き来する。
 フランチェスコ修道会であるから、アリストテレスでなく、アウグスティヌス―アンセルムス―ボナヴェントゥーラのプラトン主義あるいは普遍実在論者の位置にある。
 神の存在証明について複雑精妙な論述をするが、ポイントは、「無限者の存在を実証に基づいて証明することは、そもそも無限の概念そのものからして不可能であるが、しかも、被造物とのかかわりからという事実から初めて、このような提題をすることは可能だ。」という。
 スコラ的な主知主義からいえば、無限ということから論理必然的に存在が演繹されるという議論になるところである。存在には観念の中にのみ存在するものと、観念界とともに現実界に存在するものとがある。しかるに、無限者が観念の世界にのみ限定されているとすれば、それは無限ではないから、無限者は必然的に現実界にも存在するというアンセルムス流に本体論的証明をすることができよう。
 しかし、スコトゥスの線に沿えば、無限者を有限者のことを手がかりとして証明すること自体、不可能であると考えることもできる。有限者は無限者をとらえきれない、なぜなら、無限者は有限者から自由であるから。しかし、意志は他の外的な要因に束縛されないので、知性よりも優位に立つ。神が大いなるものであるのは、この絶対的に自由な意志ゆえである。「意志以外には意志における全意欲の原因は存在しない」(「オックスフォード講義録」Ⅱ命題25)「意志が意志であるという以外に、この方の意志がこのことを欲した理由は存在しない」(Ⅰ命題8問題5,24)
 こうなると哲学と神学とは分裂することになる。哲学とは、ある課題について、知性の働きによって論理必然的について説明することを求めていくのである。たとえばアンセルムスの『クール・デウス・ホモ』のように。ところが、神の自由意志はその論理必然性を超えて働くとすれば、哲学的営みはほとんど無効となる。「キリストの受難がわれわれの救済にとって有効であるのは、ただ神がそれをそういうものとして指定し、したがってまた恩恵の授与、すなわち秘跡の設定にとり有効なものとして受納しようと欲したもうかぎりにおいてにすぎない。」(Ⅲ命題19,20)トマスにおいて達成された信仰と理性の統合、神学と哲学の統合は、スコートゥスにおいてさらに精妙に表現されたかに見えたが、ここにおいて逆に破れが見えてくることになる。
 さらにスコートゥスの思想はウィリアム・オブ・オッカムに受け継がれる路線は、新路線via modernaと呼ばれ、トマスの路線は旧路線via antiquaと呼ばれるようになる。ルターが若い日に学んだエルフルト大学は前者の牙城であった。ルターは「アリストテレスなくしてのみ、我々は神学者となることができる。」と言ったが、その背景には主意主義的な神観がある。
パスカル風に表現すれば、アリストテレスの論理でその存在を必然的に証明されたかに見えた「哲学者の神」は、生ける神ではなかったということになる。