苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史3  中世とはヨーロッパの形成期である

(1) 中世の見直しとプロテスタント歴史観
 ルネサンス啓蒙主義歴史観においては、中世middle ageとは栄光の古典古代と、その栄光の復興たる近代との間にはさまれた時代であると言われてきた。たしかに西ヨーロッパの中世は ペストの流行・異端審問などに象徴される暗黒面はある。しかし、新たな文化を生み出した時期でもある(例えば12世紀ルネサンス)として、歴史学の分野では再評価が行われている。しかし一般的には中世を暗黒時代とみなす風潮はなお根強い。また、12世紀になるまでは経済力・文化などの面などでイスラム東ローマ帝国の後塵を拝していたのも事実である。
 いち早く、二度の世界大戦の時代に、従来啓蒙主義者によって暗黒とされていた中世を再評価した代表的書物はオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガー『中世の秋』である。ここで、彼は現在オランダ・ベルギーとなっている当時の先進地域・フランドル地方の豊かな生活、祈りの世界を生き生きと描いた。中世のヨーロッパ世界は、一方では異端裁判やガリレオの迫害に見られるようにスコラ神学が一世を風靡し、教会によって世界が支配されていたが、他方では人々は、信仰を堅持しながら、様々な絵画や文学に見られるように絢爛たる文化を創り上げ、豊かな生活を楽しんでいたことを描き出したのである。
 現代も、中世を再評価する本が続々と出ている 。なぜか?それは時代がポストモダンであるからである。今、我々の時代はモダンつまり近代の限界に突き当たってもがいている。近代的合理主義の人気が衰えると、もっと神秘的な・ロマンチックな時代への憧れが生じるのである。そこで中世の再評価ということになる。
 しかし、流行は流行として横目で眺めながらも、聖書的プロテスタントの教会史の理解からいうならば、基本的には、やはり中世は霊的な暗黒時代であったと位置付けざるをえまい。それは中世がみことばの光を隠した時代であったからである。その暗黒に対してルターたち宗教改革者たちが、みことばの光をもたらしたというのが基本的な史観であるからである。
 プロテスタントからみた教会史についての、基本的な考え方は、<初代教会から古カトリック時代前期(迫害時代)・後期(帝国の教会時代)まで教会は聖書に耳を傾け正しい教理が教えられていたが、中世ローマカトリック教会には教会はみことばを離れて霊的暗黒のなかをさまようようになった。けれども、16世紀になると中世の暗闇にみことばの光を照らす宗教改革が起こった>というのが、今は流行ではないけれども、プロテスタントとしての教会史の大きな枠組みである。

(2)中世とはヨーロッパが形成された時代
 しかし、中世は暗黒時代であって何も積極的な意味では起こっていないというならば、それは大きな間違いである。堀米庸三は『中世の光と影』で次のように言う。
 「中世とはなにか。中世を、栄光の古典古代と、その精神が回復した近代のあいだにはさまれた暗黒時代という見方がある。それでは中世は積極的な意味がないということである。せいぜいルネッサンスの準備にすぎない。
 マルクス主義的な歴史観からは、発展段階論。古代は奴隷制社会、中世は農奴制の社会、近代は資本制の社会という。たしかにそれなりの説得力はあるのだが、考察の中心は社会構造の変化に置くので、歴史の具体性は捨てられてしまう。マルクス主義歴史観では、下部構造が上部構造を決定するというドグマが支配していて、具体的な歴史は見えなくなる。
 古代は地中海世界を舞台とし、中世はアルプス以北の北西欧を舞台とする歴史だと説く。これには発展段階論をも取り込むことができる。古代の奴隷制社会は地中海世界であり、中世は農奴制社会で北西欧。しかし、これでも中世史の内容は捨象される。
 中世史は、ギリシャローマの古典古代文化・キリスト教・ゲルマン文化の一体となったヨーロッパ文化の生成を扱うのである。 」
「ゲルマン精神をもくわえた三者が、三つ巴の対立・緊張をつづけながら新しいなにものかをつくってゆく。これがヨーロッパ文化なのであり、三者間の対立と緊張は、ときに合一・融合の局面をみせながらも、中世を通じて継続するのである。しかもそれはおそらくいまだにおわってはいないのである。」
 つまり、中世とは古典古代・キリスト教・ゲルマン精神三つ巴の緊張によってヨーロッパの生成された時代なのである。ヨーロッパはこの三者の鼎立・融合によって形成された。ここにいうヨーロッパとは西ヨーロッパのことである。中世とは西ヨーロッパができた時代なのである。そして、その西ヨーロッパ文明が歴史の事実上、今日の世界を席巻していることを思えば、歴史的に中世はきわめて重要な時代であると言わねばならない。
「ヨーロッパの形成とは、西ローマ帝国の滅亡以後、それ自体まとまりもなく、さりとて東ローマの直接支配下にあるわけでもないが、その付属物としての地位しかもちえなかった西方――その共通語ゆえにラテン的西方とも言う――が、このあいまいな状態から脱却する過程なのである。この過程を推進する役割をになったのが、フランクの王権とローマ法王権であった。・・・中略・・・ヨーロッパは、フランク王権とローマ法王権の合作が実を結んだカトリック世界としてだけ、正しく設定されるのである。その最初の、決定的な段階は、シャルルマーニュローマ皇帝権復興において達せられた。」(堀米庸三『中世の光と影』p37)
 堀米氏のこの本は名著の誉れ高い本。味わい深く読み物としても面白いので、一読を薦めたい。

 中世とは、世俗領域におけるフランク王権と、霊的領域におけるローマ教皇権の緊張関係において成立している世界である。小さな領邦ごとの自給自足経済であったから、各民族は民族意識や国家意識をもち得なかったから、ヨーロッパ全土にわたるフランク王権の普遍性と、ローマ教皇権の普遍性が認められていた。