(3)西ローマ帝国衰退と気候の寒冷化
ローマ帝国の滅亡の原因については、五賢帝時代の後、文化の爛熟とともにローマ人の士気が低下したとかいろいろなたことが指摘される。版図拡大とともに軍隊の主力はゲルマン人の傭兵になり、最後は傭兵によって帝国は滅ぼされたというのは事実ではある。また、経済的要因として3世紀以降、貨幣の改鋳がなされて、金の含有量が減らされたためにインフレがひどくなり経済が混乱したとか、それで商業が衰退したことも指摘される。
蛮族が頻繁に国境線を侵すので、防衛費が増大した。ところが、農作物が不作で、帝国の収入は低下していた。古代ローマ時代末期にはローマ軍隊は、 かつての三十万から六十万に倍増していた。
また、借地料は、10%から50%以上に跳ね上がっていたので、農民は耕作を放棄するようになる。そのため、農地が荒れ果て、収入の不足を補うために、さらに借地料が上げられるという悪循環が続いていた。ローマ時代末期の経済混乱は、経済成長をもたらすインフレではなくて、スタグフレーションつまり物価は上昇し、収入は低下するという状況であった。
帝国は疫病が2世紀から3世紀にかけて疫病が流行した。その結果人口減少が生じ、それが税収の不足をもたらした。しかし、疫病で一時的に人口が減っても、食料が十分あれば回復することができたはずだが、食料不足で回復ができなかった。なぜ食料生産力が衰えたのか?
さまざまな要因はあるが、ローマ帝国衰退の根本的原因は、気候の寒冷化、小氷河期の到来である。気温が下がると、凶作となる。また、食糧生産ができなくなった北方の民族は、南の暖かい気候と土地を求めて、南下して、国境を侵してきた。
地層の中の小麦の花粉の分布によって、時代毎の気候の変化がわかるようになっている。そうした研究によれば、地中海性気候の北限を示すラインが、ローマ帝国末期にはアフリカの北岸にまで下がってしまっている。つまり、ヨーロッパは寒冷化しており、特にヨーロッパでは凶作続きだった。
すると、放牧と農業で生活している北方のゲルマンは食べていけなくなるので、帝国国境線を頻繁に侵すので、帝国の軍事費は増大する。ところが凶作が続きで帝国の歳入は激減している。激減しているから、目先、貨幣を改悪してでも増発する。しかし信用を失った政府の出す価値のない貨幣は、かえってインフレを助長する。疫病が流行して人口が激減しても、食料生産が落ち込んでいるので、人口回復ができないので、農業生産力は回復しない。このようなわけで、帝国滅亡の根本原因は気候の寒冷化であるといえるのではなかろうか。
Brian Fagan,Long Summer--How Climate Changed Civilization邦訳 ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史』 (河出文庫)
*聖書的な国家史観から
気候を摂理するのは、創造主である神である。神は、西ローマ帝国の滅亡を意思された。聖書申命記28章の歴史観を観察してみよう。主の御声に聴き従わず、偶像崇拝と不道徳にふけるならば、神はすべてののろいが臨むといわれる(15節)。すべての呪いとは①疫病(21、22) ②自然災害:日照り(22−24)→いなご・害虫(38、39、42)、③異民族・外敵の侵入・略奪(49―57)である。
申命記はもちろん古代イスラエルに対して与えられた神の契約であって、ローマ帝国に対するものではない。だから、そのまま他の国家の滅亡にそのまま厳密に適用することはできない。けれども、もし或る程度ゆるやかに援用することが許されるとすれば、ローマ帝国の滅亡はやはり、帝国に対する神の摂理によるさばきであったと解釈することもできるであろう。エドワード・ギボン、弓削達がいうようにローマ帝国は偶像崇拝に耽り、かつ道徳的に退廃しきっていた。神は、その帝国への審きとして、寒冷化という気候変動をもたらし、帝国に自然災害をもたらし、かつ、北方からゲルマン民族の侵入を招き寄せたと解しうるのではなかろうか。