苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

平凡がたいせつ

ここ三十年ほどだろうか、教育現場で個性が大事だと強調され、仕事をするなら自分の個性にあったやりがいのある仕事を選択すべきだといったことがしきりに言われてきた。近年になって、就職難で背に腹は代えられなくなって、定職に就ければなんでも、というふうに変化も見られるとはいえ、なお個性・やりがいが強調される風潮は変わらない。
 個性が大事だというのはたしかに正論である。なんでも枠にはめてしまわないで、子どもたち一人一人の存在をたいせつにして教育することは正しい。先日、酷暑の中ごった返す新宿駅を利用せざるをえなかったのだが、何千人という人とすれちがっても、一人として同じ顔をした人がいないのが不思議に思えた。かりに顔は似ていても、中身はたしかに別人なのである。一億二千万人の人間がいたら、一億二千万人みなが別人というのだから人間を造った神様はよほど人間がお好きなのだ。
 そんなわけで、ひとりひとりが大切にされる学校、社会であることが望ましいというのはわかる。しかし、だからと言って、教育現場で「自己実現」が強調され、自分にしかできないやりがいのある仕事を見つけなさいと言われ、「私は大きくなったら良妻賢母になりたい」という女の子は馬鹿にされ、「家業を継ぎます」とか「どこかの会社員になって平和な家庭を築きたい」という男の子は、軽く見られるという風潮はいかがなものか。
あまりにも個性、個性と強調されすぎて、特殊な才能もないのに自分は歌手やお笑い芸人になれないものかとあこがれて、「自分探し」をしているうちに就職できずぶらぶらしている若者も多いという。
 ほんとうは、自分の個性とはなんだろうと、それほど悩む必要などないのではなかろうか。(ビートたけしの本、確か『だからわたしは嫌われる』を立ち読みしたときに、そこにあったとことばだと思うが、)私たちの大多数は平凡な人間であって、さしたる個性がないのはあたりまえなのだ。大多数の人が平凡だからこそ、ごく少数の個性的な人が光る。ほかほかごはんにノリタマをかけたらうまいが、ふりかけは少しあればよい。ふりかけばかりでは、食事にならないし、栄養も足りないではないか。ごはんが肝心だ。(ちょっと無理なとえかな?)
 考えてみれば実は大多数の平凡な人間によって社会は支えられている。華々しさや、世にいうやりがいがなくても、畑で懸命に汗を流し、また、上司から怒鳴られ部下から突き上げられても、それを忍んで家族のために働き続けている大多数の人によって、社会は支えられている。また、毎朝早く起きて、洗濯機を回し、朝ごはんをつくり、夫と子どもの身支度を手伝い、家の隅々まで掃除をし、風呂を洗い、家族の健康を考えて夕食のメニューを考え、子どもが服を破って帰ったら繕いものをし、ときどき愚痴を言いながらも、家族の笑顔だけを報酬として、毎日毎日はげんでいる主婦たちによって、次世代が育てられて社会は成り立っている。そして、だれも見ていなくても、神様はあなたを見ておられて、あなたが託された務めを喜んで忠実に愛をもって行って神様に感謝して生きるならば、それをちゃんと評価していてくださる。
 たしかに神はひとりひとりを別々の人として造ってくださった。だから、教育の場では、ひとりひとりを大切にしてほしい。だが、個性尊重・自己実現・あなただけができるやりがいある仕事でなければ・・といったことを言いすぎてはいけない。職業人として、主婦として、それぞれが託された務めを、平凡に勤勉に地道に果たしていくことは、神の前に尊いことなのである。
 
「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
   マタイ福音書六章四節

(通信小海2010年8月号より)