苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート1 序論


(また家庭菜園で収穫できました。ただし立派なナスは隣のおじいちゃんにいただきました。心配したトマトもちゃんと赤くなりました。感謝)


 ひょんなことから、2006年度から4年間、母校である東京基督神学校で教会史の講義を担当した。筆者は一応思想関係を専攻したが、歴史については素人である。当然、一度はお断りしたが、校長の大樹先生の窮状を聞いてエイヤッとお引受けした。
 だがお引受けした以上、素人は素人なりに、この際、聖書的歴史観に立った充実した講義をしたいと志して、半年かけて講義ノートを準備した。私がこの母校における学びで、もっとも伝道する上での力になったのは、丸山忠孝先生の教会史の学びだったから、あの力をなんとかして後輩の神学生たちに伝えたいと願った。
  特に、クラスのなかに日本人だけでなく韓国人、中国人、米国人がいたことが、歴史の諸問題を考える上で、抽象論に陥らないためにとても役に立った。これらの国々は先の戦争までの歴史経験を共有しているからである。昨年秋学期の最後の2コマはインフルエンザ騒ぎで休講にせざるをえなかったが、残った部分をどうしても聴きたいという学生たちがわざわざ車に乗り合わせて小海まで来てくださったのは、うれしかった。http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20091125
 ようやく専門家が立てられそうなので、今後、出講の予定はなくなった。中世のあたりは資料が手に入らずに時にWikipediaを引用したような、専門家から見れば笑止で貧しい講義ノートにすぎないだろうが、破棄するのは、自分としては、ちょっともったいないので、今後、順次公開していきたい。関心のある方は目を通していただきたい。
 今回はとりあえず、古代教会史の序論。教会史全体のアウトラインはフスト・ゴンサレスキリスト教史』をほぼ踏襲しているが、中身についてはいくつもの参考文献と聖書による。
 また、翻訳であってもなるべく一次資料に触れることによって、臨場感あるクラスをと志したので、ベッテンソン『キリスト教文書資料集』を学生各自に持参させて参照しながらの授業をしたので、そのようなノートになっている。邦訳のベッテンソンは英語を介した重訳なのでときどき筆者のような者が見てもわかるような誤訳があるが、それでも主な資料が網羅的に採録されているから、非常に便利である。邦訳は在庫切れで、古本で見つけても高価だが、英語版は安価で手に入る。http://www.amazon.co.jp/Documents-Christian-Church-Henry-Bettenson/dp/0192880713 マクグラスキリスト教神学資料集上・下』を買う経済的余裕のある人は、もちろんそれでよいが。ネット上にも英語ならばおもな資料は公開されている。http://www.iclnet.org/pub/resources/christian-history.html#canon
手元のノートには、その他の多くの参考文献の脚注があるが、ブログ上ではすべて省略する。
 このノートの特徴のひとつは、聖書的歴史観を探求しつつ講義を進めたということである。そして、もう一つの特徴は宣教の現場に立つ伝道者が、宣教の現場に派遣されるために備えている方たちのために話したということであろう。
熱い視線を向けて、あるいは鋭い質問をして、ともに学んでくださった神学生の皆さんに感謝したい。また、素人だからと躊躇する筆者を無理やりに引っ張り出して、このような楽しい学びの4年間を与えてくださった大樹先生に感謝したい。


<追記>pdf版を、右のリンク集「小海の牧師の書斎」に入れておいた。
https://1ab4c85d-7ef5-40e3-b99d-780b70ac09e5.filesusr.com/ugd/2a2fcb_aa8220eff26047c9896b0cc16f91b1b5.pdf


             古代教会史 

序論 教会史とは

1.キリスト教は歴史の事実に根ざしている

 キリスト教は最初から歴史に根ざしている。格別ルカは「歴史家ルカ」と呼ばれる。ルカ 1:5、ルカ 2:1,2、ルカ 3:1−2で、ルカはそれぞれ誰の治世のころであったかをきちんと書いている。また、マタイ伝はイエス系図からスタートして、イスラエルの歴史のなかにイエスの誕生を位置づけている。そして、イエスが誕生した時の記述をヘロデ大王の時代に起ったと告げている。
 ちなみに、ヘロデ大王は前73生まれ前37年から後4年まで在位。アウグストAugustusとは、初代皇帝カイザル・オクタヴィアヌス元老院が与えた称号。前63年生まれ後14年に死去。クレニオは前12年にローマでコンスルに選ばれ、前3年アジア州総督、前6年から後9年までシリア・キリキヤ州総督を務め、その後ローマに戻り21年に死去。みな歴史上の実在の人々である。
 皇帝テベリオ(Tibelius)の第15年とは紀元後28−29年にあたる。ポンテオ・ピラトユダヤの総督だったのは26−36年、ヘロデがガリラヤ・ペレヤの国主だったのは前4−後39年、兄弟ピリポ、ルサニヤ、大祭司アンナスとカヤパ・・・。という具合に、バプテスマのヨハネの登場について歴史的にはっきりと時と場所を確定することができる。
さらに、ルカは主イエスの働きを継ぐ、聖霊の、教会における働きを「使徒の働き」という歴史的文書に記した。その使徒の働きの末尾は、終結していないことを示す尻切れトンボ的な表現がとられている。使徒 28:30-31「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」この聖霊の働きとしての教会の歴史は、主の再臨まで続く。
 キリスト教が歴史に根ざしているという意味は、時間と空間の中において起った具体的な事実に根ざしているということである。格別、キリスト教の救いというのは、時間と空間のなかに出現したイエス・キリストという生ける神に結びついている。諸宗教は必ずしも歴史に根ざす必要はない。原始仏教においては、必ずしもゴータマ・シッダールタという人物が実在しなかったとしても仏教は意義がある。なぜなら、彼は道を教えたが彼自身が道だったわけではないからだ。ゴータマが死ぬ時に、「自己灯明」と弟子たちに告げた。「自分自身を灯明として、修行せよ」という意味である。教えを実践することそれによって、自分を救うというのが仏教の道である。仏教に於いては、教えた人が誰であろうとかまわない。ただその教えダルマが道であり真理であればよいのである。
 しかし、キリスト教は歴史の中に受肉されたイエス・キリストである。なぜか?イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちである」とおっしゃったからである。キリスト教にあって救う主体はキリストであって、人は救われる側である。したがって、もしイエス・キリストが神話であって歴史の事実でないならば、キリストの救いはありえないのである。ゼウスやアポロン天照大神といった架空の存在が、あなたを救えないように。

2.歴史観が史料の選択と解釈に影響する

(1)史料の選択
 「歴史とは事実そのものを記述することだ」というのは、素朴すぎる。歴史記述にあたっては、まず史料の選別が行なわれる。もろもろの文献的史料がある場合、どの史料を重要と考えて選択するかにおいて、すでに歴史家の歴史観が働く。
 たとえば、マルクス主義歴史学者は経済における諸関係(共同狩猟と食糧採取・封建領主と農奴・資本家と労働者の関係)こそが歴史の発展要因であると考えるので、経済的関係を記述する資料をおもに採用するというふうに。マルクス主義では、「下部構造=経済が上部構造=政治・文化・宗教を決定する」というドグマがある。

(2)史料の解釈
 次に、採用された史料をどのように解釈するかにおいても、当然、歴史家の哲学・歴史観が働く。その歴史観を裏付けるために好都合な史料を採用し、不都合な史料は無視するということがありがちである。あるいは(あってはならないことだが)、自分の歴史観に都合よいように歴史資料を改竄するということも起こる。
 新約聖書の本文批評学におけるテュービンゲン学派の高層批評仮説も、歴史観が史料解釈に影響を及ぼしてしまった典型である。聖書本文の扱いについては、本来的な学問的手続きとしては第一に低部本文批評で本文を確定し、第二にその本文の解釈をするということである。ところが高層批評においては、それを逆転させてしまう。古代キリスト教の成立にかんするヘーゲル弁証法にのっとった仮説の枠組みがあって、その枠に都合がよいものはパウロの真筆とし、不都合なものは偽作とする。
 ヘーゲル弁証法によれば「一般に有限なものは自己自身のなかで自己と矛盾し、それによって自己を止揚し、反対物に移行する」。「これを<現実の世界の一切の運動、一切の生命、一切の活動の原理>と見なした 。彼の体系はこの立場から自然・歴史・精神の全世界が不断の運動・変化・発展のうちにあることを示し、それらの運動・発展の内的な連関を明らかにすることを試みた 」(岩波哲学小辞典)。
 「ヘーゲル哲学の影響の下,F・C・バウアとテュービンゲン学派は,*パウロの主要な手紙から*ペテロに代表されるパレスチナの教会とパウロに率いられた異邦人教会の対立を推論し,大半の新約文書は,対立が和らいだ70年以降の状況を反映していると論じた.特に「使徒の働き」は2世紀半ばの成立とされた.しかし「対立」は誇張であり,福音書使徒の働きの成立はそれほど遅くないことを,J・B・ライトフットやW・ラムゼイらが立証した.それでも原始教会内の対立や新約文書の傾向性といった見方は今日の批評家の多くに受け継がれている. 」(朴愛仙)
 「1830年代、ドイツ・チュービンゲン学派の研究者たちは新約聖書が3世紀後半に書かれたという説をとなえたが、現代までに発見された最古の写本の断片は125年までさかのぼれる上、95年に書かれたローマのクレメンスの書簡には新約聖書に含まれる10の書物から引用していることで否定された。さらに120年にポリュカルポスは聖書の16の書物から引用している。」(「現代聖書講座」第2巻聖書学の方法と諸問題pp.323-347、日本基督教団出版局) 。
 また、進化論的史観は旧約聖書本文批評に影響した。小原克弘(同志社大学教員)によれば「一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて、一神教の成立をめぐって、主として二つの学説が対峙していた。宗教進化論と原始一神教説である。前者の立場の代表的人物である宗教学者F・M・ミュラーは、自然崇拝→単一神教多神教唯一神教といった道筋を考えた。その影響を受けた旧約聖書学者のJ・ウェルハウゼンは唯一神教に至る途上に「拝一神教」という言葉を考案した。宗教進化論的な理解は、用語法や考え方は様々であるが、唯一神教がある種の完成段階に位置づけられている点で共通している。他方、原始一神教説では、A・ラングやW・シュミットらが、人類学的な報告に基づいて、社会が原始的であればあるほど、至高神崇拝が顕著であり、文化の発展と共に、こうした原初状態から多神教へと退行していったという主張を展開した。したがって、この説は見方を変えれば、宗教退化論であるとも言える。」
 以上のようなわけで、「どういう歴史観を持つか」という前提が、「どういう歴史を書き上げるか」ということに決定的な枠を提供していることになる。歴史家にとってその前提を自覚することが、大切である。自分が無前提で客観的な歴史を編んでいるなどと思っているのは最悪である。では、歴史は主観でしかないというべきだろうか。歴史には主観的要素がかなり強いが、一定限度の客観性が保たれるのだとして研究するのが今日の一般的考え方である 。
 
3.歴史観が歴史をつくる
 どういう歴史観を持つかということは、その人、その民族や国家の生き方を大きく左右することになる。抽象的な哲学理念が庶民を動かすのは難しいが、歴史観は容易に民族を突き動かす力を持つ。歴史観は扱いようによっては危険な物でさえある。権力者はそれをよく知っている。たとえば古事記日本書紀大和朝廷の正統性を裏付けるために造られた歴史である。戦前行なわれた「皇国史観」もそうである。皇国史観では古代に朝鮮半島南部に任那という日本領土があったと誇張して教えるが、これは半島侵略を正当化するためである。他方、韓国では任那の扱いを無視するかごく小さくする 。戦前教科書で十六世紀末の秀吉の朝鮮侵略(文禄=壬辰倭乱慶長の役=丁酉倭乱)が「朝鮮征伐」と表記されたのも同じ。
 古代大和朝廷記紀編纂において意図したこと、また戦前の国定教科書の意図したことは、「天皇を中心とする神の国」としての日本という概念を国民に刻み込むことである。戦後の家永三郎の[教科書裁判]も歴史をめぐっての戦いであった。また、ここ数年、「新しい歴史教科書を作る会」の歴史教科書の意図も明白。
 これは日本の歴史教科書だけに見られる現象でない。韓国国定歴史教科書 では古代史において韓王朝の始祖とされる檀君王倹が神の子孫であるという神話が記されている 。また、元(モンゴル)軍に動員されて高麗軍が日本を侵略したいわゆる元寇について、これを「日本征伐」と記述している 。日本征服計画をフビライに持ちかけたのは趙彝(チョー・イ)という高麗人であり、元寇の主力は高麗軍だった 。この戦役で戦場となった対馬壱岐では、「男は殺害、女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るされた。 200人の少年少女が「強制連行」され、高麗王とその妃に献上された 。また、ベトナム戦争への参戦については、韓国国定教科書はただ、一言「共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した。」と触れるのみである。ベトナムにおける韓国軍の残虐行為については、日本の教科書が南京虐殺にふれないか、ふれてもわずかにすませているのと同様に沈黙している(『韓国国定歴史教科書』明石書店、2000年)。
 どの国でも、国家権力は歴史教育を通して国民の戦意高揚を図るために、自国の歴史の恥部は隠し、栄光のみを記述する傾向がある。そして、国民がどういう歴史観を持つかということが、戦争まで引き起こし、民族の運命を左右することがある。歴史観が歴史をつくることがあるのである。これを教会に適用すれば、いかなる教会史観を持つかということは、いかなる教会の歴史を形成していくかということに大きな影響がある。

4.鏡としての歴史
 日本の古典文学のうちに「鏡物」と呼ばれるジャンルがある。大鏡、今鏡、水鏡、増鏡といういわゆる四鏡と呼ばれる作品がある。歴史物である。歴史物が鏡物とよばれるのはなぜか?過去の出来事に現代を映して反省し、今日を、明日を生きるための糧とするからである。あまりにも有名なドイツ大統領ヴァイツゼッカーの演説「荒野の40年」のことば。
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも目を閉ざすことになります。」
 だから、鏡はゆがんでいてはいけないし、曇っていてもいけない。

5.自分の歴史観を自覚する
 しばしば「そういう考え方は古いよ」と言って人の意見を一蹴してしまう若者が多い。なぜ「古い」というと、相手を否定できると考えるのであろうか。それは、その人が意識しないでも「進歩史観」に染まっているからである。進歩史観というのは19世紀の西洋に流行した考え方である。「昨日より今日のほうがよりよく、今日より明日の方がよりよい」という価値観であり。それゆえ、古いものは新しいものよりも価値がないと考えるので、「古いよ」といえば、相手を否定し去ることができると考えるのである。
 しかし、もし「退歩史観」に立てばどうなるであろうか。退歩史観とは「昨日は今日よりもよく、今日は明日よりもよい」という歴史観である。古代は黄金時代であり、その次は銀の時代、青銅の時代・・・という考え方である。ルネサンスはこのような退歩史観であった。ルネサンスとは、古典古代の再生を意味している。ギリシャ・ローマの時代の古典を再生しようというのである。中国古代の歴史観においても、堯舜の時代は理想的な統治が行なわれていたが、段段と悪くなってきたという考え方がある。だから退歩史観によれば古いものほど良いこととなる。そうすると、「そんな考えは新しいよ」と言ったほうが議論で勝利することになろう。このように歴史観をどのように持つかということは、価値観や生き方ときわめて密接な関係がある。
 そういうわけで、我々がどのような教会史を学び、教会史観を身に付けるかということは、その人の生き方、また牧師となる方たちにとっては教会形成にはなはだ大きな影響を及ぼすことになる。また、有名な聖書学者が書いているからといって、その仮説を鵜呑みにすべきではない。歴史観の前提がちがっているかもしれないのである。
 日本で小学校以来習ってきた世界史は基本的に啓蒙主義的な歴史観である。古代―中世―近代という基本的三区分がその典型。近代を<近世と狭義の近代>として古代―中世―近世―近代としたり、さらに、近代の後に現代を持ってきて五区分することもあるが、基本三区分は同じ。これは、古代には光があったが、中世はその光を闇が覆ってしまった。しかし、近代になってもう一度光の時代が来たという。光とは自然的理性のことである。
 他に次のようなもろもろの歴史観がある。進歩史観としてはヘーゲルの理想主義的歴史観があり、コントは実証主義進歩史観を唱え、マルクスは経済的要因を歴史の支配的要素とした唯物主義史観を唱えた。
 
6.聖書的歴史観を目指して
 聖書を神のことばと信じるキリスト者として、私たちが持つべき歴史観というものがあるとすれば、それは聖書的歴史観に他なるまい。では聖書的歴史観とはなんだろうか?
(1)歴史は神の主権的摂理の作品である
 <歴史とは、神の永遠の聖定の、時間における摂理による展開である>その概要は<創造―堕落−贖い−完成>ということになる。
神の摂理のわざとは、神の全被造物とそのすべての行動の、最もきよい、賢い、力強い保持と統治である。」(WSC11)歴史は人格的な神の作品であるからこそ意味がある 。だから解釈する甲斐がある。もし知恵ある摂理者がおらず、さまざまな出来事が偶発的に起こっているだけだとすれば、これを解釈することは、ただのゴミの山を著名な芸術家の作品だと思い込んで解釈し、意味付けをしようとするくらい無意味なことである。

 (2)時は螺旋構造をなす
創世記によれば、神は天体の運行によって時を刻むこととされた。
「 神は仰せられた。『光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』そのようになった。」(創世記1:14-15)
 地球の自転一回が一日、地球の公転一回が一年となって、これが繰り返される。聖書の時は異教世界とちがって、一直線であるというのは一面的な見方であって、聖書におけるときの構造は、創造から終末にいたる線分という側面と同時に、繰り返しという側面を持っている。すなわち、聖書的な時の構造とは螺旋的なものであるということができる。
それはレビ記に定められた暦についての記述にも現れている。
 レビ記23章から25章を読むならば、時は循環しつつ前進するというという構造、つまり螺旋構造をしていることがわかる。一日は夜が来て朝があったという繰り返しであり、安息日から安息日へと一週間はめぐりつつ、一年が経ち、一年を七回繰り返して安息の年が訪れる。そして安息の年を七回繰り返して、ヨベルの年が訪れる。ヨベルの年を五十年ごとに繰り替えしながら、時は創造から終末へと向かって行く。
 歴史は繰り返すという側面と、歴史はひたすら創造から最後の審判に向かって突き進んでいるという側面との両方を悟ることが大切である。ときは一直線であるからこそ、一日一日が貴重であり、意味がある。しかし、まったく新しいわけではなく繰り返すからこそ過去を反省をしてやりなおすチャンスがある。

(3)歴史は「神の国」と「地の国」の抗争の展開である
聖書に拠れば、神の歴史に対する主権的摂理というのは、決して単純なものではない。神の支配を嫌うサタンの働きがあり、サタンは「この世を支配する者」といわれ、罪に陥った人間は神に反逆して神のみこころに背いている。そして、ヨブ記を見ればわかるように、それは計り知れない神のみこころによって、ある程度許容されており、一見すると義人が苦しみ、悪者が栄えるという状況もある。しかし、サタンと罪人の反抗にもかかわらず、究極的に神はいっさいを統治して、御心を成し遂げられる。かように聖書における神の歴史支配は単純な予定調和ではなく複雑であるから、その解釈は容易ではない。自己の立場を正当化するために、歴史を解釈するならば、ヒトラー政権を擁護した「ドイツキリスト者」と同じ過ちを犯すことになるであろう。
アウグスティヌスは『神の国de Civitate Dei』において、カインに始まる「地の国」とアベルに始まる「神の国」の対立抗争の展開としての歴史観を描いている。神の国とは神を愛する愛を原理とする国であり、地の国とは自己愛を原理とする国である。現実の歴史は、この両者の抗争の展開である。アウグスティヌスがこのような歴史観を聖書から読み取りえたのは、彼が若い日から悪の問題ないし罪の問題について悩み、善悪二元論マニ教、新プラトン派の哲学、そして聖書にたどり着いたこと、そして、司牧生活をしたことと関連している。

(4)聖書はあらゆる人間、民族を決して美化しないで、罪の現実を直視している。
これは驚くべき特徴である。ダビデ王、ソロモン王といった稀代の英雄さえも。
 最近の「新しい教科書をつくる会」の歴史教科書の歴史観はまったくちがう。現在の自分たちの国家にとって、好都合な事実のみを強調し、くさいものにはふたをすべきであるというのが、彼らの歴史観であり、過去の自民族や国家の歴史の汚点を正確に記すことを自虐史観であると非難する。
 
(5)物質的・政治的繁栄は、その時代や王朝にかんする評価の規準とはされていない。肝心なことは、その繁栄が神からの祝福としてのものなのか、それとも悪魔からのものなのか。たとえばアハブ王は実は政治的には業績があったが、評価されていない。
だから、いわゆる「勝利主義的史観」ではない。ダニエル書7章を見ても、軍事帝国の興亡は悪魔的なものとされている。
 それゆえ、たとえばコンスタンティヌス帝の回心とその後のキリスト教の国教化を手放しに評価はしないし、中世ローマ教会の十字軍についても、近代植民地主義の波に乗った世界宣教のありかたについても、安易な評価はすべきでないと考える。

(6)教会史には逆転・皮肉がある
 これは丸山忠孝先生がしばしば指摘なさるところ。エルサレム教会に対する迫害が、世界宣教の実行を促したといった例がある。
また「後の者が先になり、先の者があとになる。」ということもしばしば起こる。「キリスト教国」がもっとも悪魔的になるということも起こるのである。教会の歴史には、一見、大いなる成功と見えたことが失敗であり、失敗と見えたことが実は成功であったということがしばしばある。

(7)「教会と国家」という課題
 旧新約聖書において、そして2000年にわたる新約の教会史において、教会と世俗権力の問題は常に問題的な問題であった。この視点を落としては、教会史は見えてこないし、教会形成もできない。国家権力の背後には悪魔がいる。
国家に関しては、二つの13章をしっかりと把握することが重要である。
 神の僕としての国家観・・・ローマ13章
 サタンのしもべとしての帝国観・・・黙示録13章

(8)神の民の祝福と滅亡についての摂理
 申命記28章には、神の民イスラエルに対して、契約への服従には祝福が、契約への不服従にはのろいがもたらされることが記されている。呪いとは疫病、旱魃、水枯れ、作物の病害虫そして、異民族の軍事的な侵入である。実際に、イスラエルの歴史を見るならば、神はこの契約に基づいてイスラエルの民を取り扱われたことがわかる。
 これがどの程度、新約の時代の歴史、教会の歴史を解釈する上で有効になるかはわからないが、留意しておきたい。
 これらの点を意識しながら、教会史を学んでいきたい。