苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

もっとあなたらしく


     (家庭菜園の収穫 キュウリ・インゲン・ミニトマト

父と私たちの仲介者
 父なる神は、「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない」方だと聖書は言います。父なる神は、無限の超越者であり絶対者ですから、ちっぽけな私たちは、近づくことも見ることもできません。では、私たちはどのようにしてほんとうの神様を知ることができるでしょうか。近づくことができるでしょうか。私たちのほうから近づくことは不可能です。
神の御子イエス様は「見えない神のかたち」であると聖書は教えています。小さな私たちが父なる神を見ること知ることも近づくことができないので、神様と私たちとの仲介者となって、見えない神を私たちに見えるようにしてくださるのです。
エス様は、父なる神から生まれたお方なので、父をよくご存知であり、かつ、有限な私たちに親しく近づいてくださるのです。イエス様は私たちにとって、どういう点で近しいお方なのでしょうか。

ハンコとその跡
人間以外の世界のすべてを造り終わったとき、イエス様は、父なる神と相談なさって、仕上げに人間を造られました。そのとき、「見えない神のかたち」であるイエス様は人間をご自分に似せて造られました。
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちにしたがって、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを 支配するように。』 神は人をご自身のかたちにしたがって創造された。神のかたちにしたがって彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 いわば、ハンコとハンコを押した跡の関係といえばいいでしょうか。ハンコがイエス様であり、紙についた跡が私たち人間であるということです。イエス様は、人間をもともとご自分に似た者として造ってくださったので、私たちひとりひとりに特別に深い関心を寄せているのです。

芸術作品として
 イエス様は、あなたのことにも深い関心をもっています。その事実は、一億人いたら一億人ひとりひとりが別々の特別の人として造られていることを見ても、あきらかなことでしょう。
 ものを造るというのには、工業的に製造するばあいと、芸術的創造のばあいがあります。工業的に造るばあいは品質の均一性が求められます。他方、芸術的創造のばあいには、作品はひとつとして同じものがありません。私たち人間は何十億人いたとしても、ひとりとして同じ人がいないように造られていますから、私たちはイエス様がご自分に似た者としながら、ひとりひとりをかけがえのない芸術作品としてつくってくださったのだということがわかります。自分をつまらない者だと思ってはなりません。あなたは、イエス様に似せて作られた、たったひとつの芸術作品なのです。

理想と現実に引き裂かれて
 イエス様に似せて造られた芸術作品にしては、どうもおかしいなあという気持ちを持たれるでしょうか。イエス・キリストというお方は、どうもとてつもなく愛ときよさと正義に満ちた立派なお方であったらしいが、残念ながら自分はそんな立派な愛も正義もきよさも持ち合わせていないよと嘆くとしたら、あなたはご自分がよく見えた誠実な方です。
 そうです。どうも私たちは壊れているのです。心の中では、きよく正直に生きることができればよいのにと願っているのですが、実際にはけがらわしいことを思ったり、うそをついてしまって自分で自分がいやになってしまったりします。やさしい思いやりあることばをかけてあげたいなあと思っているのに、口からはひどいことばを吐いてしまって、「あーあ、なんで私はこうなんだろう。」とがっかりしてしまいます。私たちは、「あんなふうにありたいものだ」と願いながら、実際にはなかなか思ったように正しくも、きよくも、やさしくも生きることができないでいるというのが現実です。理想と現実に引き裂かれているのが、私たちの現状ではないでしょうか。
 もし、もともと人間がけがれた者として造られていたら、けがれたことをしても平気でしょう。もし、もともと私たちが嘘つきとして造られていたら嘘をついても良心の呵責に苦しむことなどないはずです。もしも愛する者として造られていなかったら、愛の欠けた自分にがっかりすることもないでしょう。けれども、私たちは「あんなふうに生きたい」と願いながら、現実には理想とほど遠い自分を見出してがっかりしています。それは、もともと私たちがイエス様に似た者として造られたのに、その本来の姿から落っこちてしまっているからです。

もっとあなたらしく
 「たしかにキリスト教はいいものらしいけれど、型にはめられて自分らしくなくなってしまうように思えるなあ。」そんなふうに感じている人が、けっこう多いように思います。
 ある画家が描いた絵をうっかり汚してしまったら、どうしたらよいでしょう。自分で直そうとしてはいけません。かえってだめになってしまいます。得策は、その絵を描いた画家に「すみませんが汚れた絵を直しください」と頼むことです。
 イエス様はあなたの作者ですから、あなたの壊れ、汚れ、がっかりしてしまうところを直してくださるのは、イエス様以外にありません。あなたを本来の姿にもどすことができるのは、あなたの作者イエス様をおいてほかにはいません。
 「イエス様。ごめんなさい。私は自分をすっかり汚して、傷つけてしまいました。直してください。」とイエス様に立ち返りましょう。イエス様はあなたを赦して、もう一度ご自分に似た、本来のあなたらしいあなたとして作り直してくださいます。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」2コリント三:十八

(『通信小海』2010年8月号)