苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ブログを書くこと

 「ブログを書くための時間を毎日どのように捻出しているのか」と問われることがある。筆はかなり速い方だとはいえ、たしかにそれなりの時間がかかるのは事実である。勤め上、東京などに出なければならない日もけっこう多い。白状すれば、必ずしも毎日書いているわけではなく、ふと仕事の合間に思いついたことがあると、ブログ管理の下書きフォルダに題名と少しのメモをためておくのである。その中でやがて熟成してものになるものと、ものにならないままたまっているものと、旬のときを失って没にしてしまうものとがある。今、フォルダーにものにならぬものが50ばかり貯まっている。
 日記ならば十五歳から二十代半ばまで大学ノートに書いていたことがある。実際には、週に一度、月に二三度、気が向けば一週間続けてというありさまだったから、日記というより「ときど記」だったが、それでも二十冊ばかりになった。では、なぜやめてしまったのか。書く必要を感じなくなったからである。その大学ノートの束は、本棚の肥やしになってしまい、つい先日始末してしまった。
 こんなわけで二十代半ば以後ひさしく日記から離れてしまっていた。数年前、一度、正月に「三年連用日記」というのを入手して書き始めてみたが、三ヶ月ほどでやめた。欄がせますぎて、書きたいと思うほども書けないのが不満だったのと、自分だけを読者とする記録を書き続けることが困難だった。
 ブログには自分のための覚書という面があるが、読者を意識しているからこそ書き続けられるのも事実である。そういえば、ずいぶん以前に読んだ本のなかで森有正が、「わたしは仕事をなんのためにしているのか。」と自問して、「それは愛する者にその仕事を見てもらうためである。もし、そうでなければその仕事はなんとむなしいことだろう。」と、哲学者らしからぬことを言っていたのが心に残っている。哲学者らしからぬというのは、筆者のイメージとして哲学者というのは人や世間がどう評価するかなどということを超越してこそ哲学者であろうと思っていたからである。だが、むしろ森有正のこのくだりは、「汝としての神」を知る哲学者にはふさわしいものなのであろう。
「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ福音書6章4節


 庭の畑にできたイチゴ