苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・ⅩⅣ 働くこと:祝福と呪い

一時期「やりがい」という言葉が流行した。われわれは「やりがい」のある仕事をさがすべきであって、それがないならば転職を恐れるなという風潮がひろがった。しかし、小泉・竹中改革(=米国政府からの年次改革要望書の実施)によって労働者派遣法改正でワーキングプアが大量生産されて、背に腹は代えられなくなったせいか、最近は「やりがい」ということばがあまり聞かれなくなった。しかし、仕事にやりがいを求めることは間違ったことではない。自分のやっている仕事にやりがいが感じられなければ、むなしくなる。本来、仕事のやりがいとはなんなのだろうか。

1 ラクだから楽園?

聖書を読んだことがない人も、アダムとイブとかエデンの園という名は聞いたことがあるだろう。「エデンの園では、人は仕事などせず一日遊び暮らしていても、たわわに実った滋養満点の果物を食べて、ラクダにでも乗って暮らしていればよかった。まさにエデンの園ラクだから楽園だった。労働なんかしなくてよいのだ。」というイメージを抱く人が多い。
 聖書以外の世界では、労働というのは厭わしくできればやらないですませたいこととして扱われてきた。古代ギリシャ奴隷制社会であったから、労働は奴隷や家畜のすることであって、自由人のすることは戦争・芸術・哲学であるとされ、とくに哲学をすることはもっとも優れた人間の営みであるとされていたという。もちろん旦那のソクラテスの哲学を理解できず、バケツの水をぶっかけていた奥さんもいたそうであるから、哲学こそもっとも高度な人間の営みであるなどというのは、哲学者が考え出した理屈かもしれない。とはいえ、パウロアテネのアレオパゴスを訪ねた時も、ギリシャ人たちは朝から晩まで哲学を論じ合っていたとある(使徒17:17-21)。ギリシャ語で労働にあたることばポノスは、同時に苦役という意味をあわせ持っている。こうした労働観は、キリスト教社会であるはずのヨーロッパ中に広がっていて、ラテン語のラボール(英語レイバーの語源)、フランス語のトラヴァーユ、ドイツ語アルバイトにも、やはり苦役という意味が含まれている。ヨーロッパの知識階級は、今もなお糧をえるためにする労働を蔑視する向きがある。
 こうした異教的価値観はキリスト教理解にも影響をおよぼして、聖なるものと俗なるものを峻別する価値観を生み出してしまう。筆者が中学生のころ、名優マーロン・ブラントがマフィアのボスを演じてアカデミー賞を獲得した「ゴッドファーザー」という映画が流行った。テレビで繰り返し流された映画の予告編に強烈な印象を受けた。「愛のテーマ」という主題曲とともに、うらびれたイタリアの町の風景が現れ、教会堂の懺悔室で主人公が、神父に対してなにか罪を告白している。静謐な場面である。ところが、次の場面、黒塗りのクラシックカーが石畳の路上に止まると、マシンガンを抱えた黒コートに山高帽の男数名が駆け寄ってバリバリバリ!と襲撃する。「いったい、あれはなんだろう?」と思った。数年後、教会に通い始めた筆者は、ある書物の中で、ローマ・カトリシズムは聖俗二元論に立ち、聖なる務めは司祭職や修道士のみであって、その他の仕事は俗なるものとされるという文章に出くわした。脳裏に、懺悔室とマシンガンがよみがえって、なるほどあれはカトリック的な聖俗二元論を極端な形で表現していたのかと了解した。

2 労働は祝福

 しかし、聖書によれば、労働は本来、堕落の結果もたらされた呪いではなく、神が命令として人間に与えたものなのである。そのかぎりで労働もまた聖なるものである。「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)労働はアダムが勝手に始めたわけでなく、神がアダムに使命として与えたものである。伝道だけが神からの任務ではなく、汗を流し地を耕す労働もまた神からの任務なのである。
労働の内容は、地を「耕し」かつ「守る」ことであると言われている。「耕す」というのは、ヘブル語で、しもべ(エベド)と同根の語「アバド」が使われているから、言い換えると「土に仕えること」である。田畑の世話をするというニュアンスだろうか。それは神が人に与えた仕事が、土地を「耕させる」こととともに、「守らせる」ことでもあったと言われていることと調和する。
筆者の小さな畑でトマト、ナスを4年ほど続けて作ったら、トマトもナスも病気が出た。連作障害である。畑がせまくて、輪作できなかったことが原因である。これを大規模に行なっているのが、米国やオーストラリアなどである。地平線までの畑に、飛行機で化学肥料のみ施し、同じ種をまき、殺虫剤を散布するといったやりかたの農業をすると、最初二年ほどは面白いほど取れるが、まもなく病気が発生する。病気を抑えるために土壌消毒をして土の中の微生物を殺してから種まきをするが、地力はどんどん失われる。しかも、地下水を大量にくみ上げての灌漑農法では、地下水に含まれる塩分によって土地は耕作不能になってしまっているという。こうして耕作放棄地がどんどん広がっている。米国やオーストラリアは土地がいくらでもあるから、次から次に土地を取り替えればよいということなのだろうが、こうした国々に対抗するために日本でも農業を大規模化すべきだと主張する人々がいる。しかし、日本では農地をひとたび殺してしまったら、もう代わりとなる農地などないのである。日本やヨーロッパのような農地に限界がある地域では、農地を耕しかつ守る農業でなければならない。
土から作物を取ったら、その分は堆肥などで栄養分を返すなり、土を休ませるなりして、連作を避けて輪作体系を組むといった工夫が必要である。旧約聖書の律法には、七年ごとの「安息の年」が定められていた。このように土の世話をしてやることが、「土に仕え、かつ守れ」という神のみこころにかなう農法であろう。これは農業だけでなく、林業、漁業その他すべての産業において、心すべき態度である。
イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」(レビ25:2-7)


3 労働に呪いが

 ところで、アダムが神に背いたとき、本来、人に従順であった被造物・大地に呪いがかけられ、労働は苦役としての側面を持つようになった。神は仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(創世記3:17-19抜粋)
 古来、多くの民族において労働という言葉に苦しみという意味が含まれて来たのは理由のないことではない。事実、今日、過労死の犠牲者がたくさんいるように、人は労働によってからだと心を壊してしまうことが、しばしばある。他人事ではない。また、創世記の言うとおり、作物よりも茨やあざみのほうが力が強く、収穫目前の白菜やキャベツは鹿に食い荒らされ、トウモロコシはたぬきに食べられる。
 そんな堕落後の世界の現状ではあるから労働は辛い。しかし、神の子であるキリスト者としては、この時代のなかで限界がある中にあっても、神を見上げて、一度にすべてではなく少しずつ、本来の祝福としての労働を回復していくことで神の栄光を現すことが尊い任務として与えられている。
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」(ローマ8:19)