9月の通信小海240号の第一、第二面に載せる文章です。
(霊泉寺温泉中屋旅館・清風楼)
上田から松本に向かう国道二五四号沿いにある霊泉寺温泉に出かけた。山あいに、まるで昭和三十年代のまま時が止まってしまったような風情の町に、ほんの数軒温泉宿がある。この場所に遠くは三重や宮城からも三十数名が集って講座がもようされた。
三つの講演のうちひとつを紹介しておきたい。それは、著名な憲法学者、笹川紀勝先生の「アルトジウスの『共生の思想』をさぐる」というお話である。アルトジウスという名前は筆者も初めて聞いたが、十六、七世紀にドイツで活躍し全ヨーロッパに大きな影響を与えた法学者なのだそうだ。最近しばしば「共生」ということばが用いられるが、歴史上初めてこのことばを用いたのはアルトジウスだったという。
近代の国家観の根底には、ホッブズという哲学者の人間観がある。ホッブズの人間観とは、「人間は生まれながらに、自由な戦う者」である。だから、世界は「万人は万人に対して狼である。」ということになる。しかし、それでは自分自身いつ誰に殺されてしまうかわからないから、人は自分の自由を抑えて王の支配に委ね、王は剣と法律をもって民を統治する。聖書のローマ人への手紙十三章には、神は権力者に剣をもって社会の秩序を守るようにと定めているという教えがあるが、ホッブズの教えはこれに沿っているのであろう。
だが、アルトジウスは聖書が教える人間観にもとづいて、別の国家像を描き出している。アルトジウスは、人間とは「誰も自足しておらず、誰かの助けを必要としている」存在なのだといい、ここを出発点として家庭・社会・国家というものについて考えている。
人間はお互いに欠けがある者同士であるからこそ、お互いを必要として補い合って共に生きていく。典型的には、生まれたばかりの赤ん坊を見るが良い。赤ん坊は、まったく援助がなければ決して生きていくことはできない。人は誰しも赤ん坊のように、多くの愛と援助をうけて成人したのである。
講演を聞きながら、創世記の二章に書かれていることばを思い出した。神は初めに男を造られたとき、「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼にふさわしい助け手をつくろう。」とおっしゃった。事実、アルトジウスは、宗教改革者カルヴァンの聖書理解の影響を受けてこの「共生」の思想を生み出したのである。
そもそも、人は欠けがあるから互いに補い合うために、結婚し、家庭をつくり、社会という共生体を形成し、そして、国家というものをもつくった。国家というのは、私たちが共に生きるための装置なのである。なにか国とか権力というものが先にあって、民がそれに属するのでなく、民が共に生きるために国を形成したのである。
結婚において、妻には夫のリーダーシップを重んじて従う義務があるが、他方、夫には妻を愛する義務がある。妻を愛することをしない夫は妻の服従を求めることはできない。同様に、民は権威として政府を尊重し従う義務があるけれども、他方、政府は民を法律や警察をもって脅すのではなく、民が幸福に暮らすことができるように奉仕する義務がある。政府は民の福利のために奉仕してこそ、民から尊重される資格がある。
笹川先生の講演には目が開かれる思いがした。ご講演のあと、かつての明治憲法には、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ(戦争になったらお国のために死ね)」とあったが、日本国憲法にはアルトジウスがいうように、民が共に生きていくための国家像が描かれていることが確認された。今、この日本国憲法が危機に瀕している。