苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

『聖書神学事典』の面白味



 バラとアマガエル


 いのちのことば社から『聖書神学事典』が出された。少しばかり執筆を担当した。最初、学者でもない筆者のような者になぜ?と思ったが、担当を依頼されたのが、「悪」「悪魔・悪霊」「異端」「偶像」「魔術・占い」といったおぞましい項目がほとんどだったので、筆者が二十年ほど前に必要に迫られてニューエイジ問題を書いた因果応報(?)であろうと観念した。「いやだわ。こんなことばかり書いていたら悪魔の攻撃を受けるかもしれない」と妻が言った。その後、編集者が同情してくださったのか、「救い」も書くようにと追加してくださったので、妻もほっとしたというようなことがあった。
 本書は聖書辞典ではなくて、聖書神学事典である。もし聖書辞典だったら私は引き受けなかっただろう。だが、出来上がったものを拾い読みしてみると、辞書っぽい書き方をした項目と、神学的文章の項目がある。小項目が辞書的になってしまうのはやむを得ないが大項目でもワードスタディに徹した辞書っぽい文章がある。はっと思いついたのは、これは執筆者によってそれぞれ「聖書神学」についてのイメージが違っているせいではないかということだ。
 かってな想像だが、「『聖書神学事典』の執筆を」と言われてキッテルの『新約聖書神学辞典』をイメージした執筆者は、ワードスタディ的書き方をなさったのだろう。だが、筆者が依頼を受けたとき、すぐに念頭に浮かんだのは、すでに古典に属するG.ヴォスの著書『聖書神学』だった。ヴォスは、そのイントロで聖書啓示を論理的体系として構成した組織神学に対して、聖書神学とは聖書啓示を歴史的発展の相において提示したものであると言っている。もちろん編集者から書き方についての注文や枠付けはあったが、上の両様を含みうるものだった。私はその注文を見て、後者のイメージを思い浮かべたのである。
 というわけで、キッテルを念頭に書いた執筆者は、たぶんヴォスを念頭に書かれたものを見て、「一般の神学の記述みたいだなあ。聖書神学なのだから、もっと聖書テキストに密着しろよ。」と感じるのだろうし、ヴォスを念頭において書いた執筆者は、キッテルを念頭に書かれた項目を見て、「なんだこれじゃ聖書神学事典じゃなくて、まるで聖書辞典だな。」と感じるのだろう。言い方を換えれば、木を見て森を見ようとする人と、森を見て木を見ようとする人の違いである。
 『聖書神学事典』は項目ごとに執筆者名がいちいち書かれているので、そういう執筆者の頭の働き方とか専攻分野とか出身神学校の背景がそこはかとなく、あるいは明瞭に感じられる。面識のある先生方は三分の一ほどなのだが、お目にかかったことはなくても記述を通して見えてくる個性がなんとも興味深い。複数執筆者による聖書神学事典ならではの面白味である。