苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

至上命令

                使徒4:1−31
                2010年1月3日 小海主日礼拝
1.逮捕

 場所はエルサレム神殿のソロモンの回廊。多くの群集が耳をそばだててペテロの話を聞いています。十字架に死んだが復活したイエスが、この男を癒したのだと聞いて、多くの人々が悔い改めてイエスを信じました。これに当惑したのは神殿管理を担当していた高位聖職者でした。彼らが群集をたきつけてイエスを十字架につけさせたのですから。しかし、目の前で生まれながらの足萎え男のいやしという奇跡が起こってしまったので、その事実は取り消しようもありません。結局、どうすることもできなくて、暴力的手段に出て、彼らを逮捕して留置場に閉じ込めてしまいます。権力というのは、平時には紳士的で親切そうに振舞っているものですが、自分の都合が悪くなると、最終的には暴力的手段という実力行使にでるものです。(4:1−4)
 しかし、福音を伝えたために弾圧され牢屋に閉じ込められてしまうという事態は、驚くべきことではありません。主イエスは、このような事態が来ることを弟子たちにあらかじめ語っておられました。そのときには、聖霊が語るべきことばを与えてくださると約束なさったのです。
「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(マルコ13:9−11)
 私たちも、もしキリストの福音を伝えたために、逮捕されるようなことがあったならば、慌てる必要はありません。それには神様の目的があります。権威ある人々の前で公にキリストの福音をあかしするという目的です。ですから、ペテロもヨハネもひるみませんでした。主イエスのご計画どおりにことが進んでいることを理解していたので、落ち着いていることができました。

2.法廷で

 さて、ユダヤ最高議会サンヒドリンの代表的人物たちによる尋問が始まります。
 「 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、『あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか』と尋問しだした。」(4:5−7)
 尋問のポイントは「あなたがたは何の権威によって、まただれの名によって」奇跡を行ない、かつイエスの復活をのべ伝えたのかということです。これに対するペテロの態度は堂々としており、その応答は明確です。この法廷の面々は主イエスを死刑に定めた法廷です。ペテロがイエスの復活を宣言し続けたならば、法廷は同じ裁きを下す可能性もあります。けれども、このときのペテロはイエス様が大祭司カヤパ官邸でさばきを受けていたとき、中庭で焚き火をして遠くから見ていたペテロとはまるで別人のようです。あの日、ペテロは命が惜しくなってイエスのことを三度も知らないと言ってしまいました。しかし、今日はちがいます。なぜか? 聖霊が彼のうちに満ちていたからです。
「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」4:8−10
ペテロは、言葉を左右せず、この奇跡を行なったその権威ある名は、ナザレ人イエス・キリストであると断言しました。イエスこそ待望されたキリスト、ヘブル語でいえばメシヤなのだと告げました。「あなたがたは、その神が遣わされたメシヤを辱めのきわみである十字架につけて殺したが、メシヤは死者のなかからよみがえって、この奇跡を行われたのだ」というのです。
 しかも、この出来事は旧約聖書詩篇118:22に預言されていた預言の成就だとペテロは告げます。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』家を建てる者たちというのは、石造りの家をイメージしています。棟梁は、石工を指示してあの石、この石を組み合わせて家を建てていくわけですが、その棟梁がこの石は役に立たないと言って捨ててしまった石がある。ところが、その石がつぎに新しい家を建てるときには、実は、最高のもっともすばらしい土台石として用いられたというのです。ここでは、家を建てる者たちというのは、神の家である神殿を運営している祭司・民の長老たち指導者のことを意味しています。家を建てる者たちに捨てられた石というのは、イエスさまのことを指します。祭司や民の長老たちである君たちはイエスを捨てて十字架で磔にして殺してしまったけれども、そのイエスこそメシヤであって、新しい神の家つまり新約時代の教会の土台となられたのです。あなたがたがイエスを捨てて殺したのは、預言の成就です、とペテロは告げます。

 そして、決定的な宣言をペテロはしました。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」4:12
 「イエス・キリストのほかには救いなし」とはなんという排他的な宣言だろうかと初めて聖書を読んだ方は思うでしょう。しかし、よく考えてみましょう。まず、このことばを正しく理解するには、「救い」の定義を明らかにしなければなりません。「救い」とは、何からの救いであるのか?もし救いを貧・病・争からの救いだと定義すれば、ほかの宗教や心理学や医療や福祉政策にもある程度救いはあるといえるでしょう。キリストにある救いにも確かに、病気や争いや貧困からの救いということもオマケとしてはついてきます。けれども、それはイエス・キリストのくださる救いの中心ではありません。イエス・キリストの救いとは、罪からの救いです。罪から救って、命の源である神とのまじわりの回復を与えるのは、ただイエス・キリストのみであると聖書は言っているのです。聖なる神の前では罪こそが、人間の根本的問題なのであり、神から遣わされた救い主はイエスだけですから。
 哲学者カントは、人間の道徳について非常に有名な原理を明確にしました。<善があるとすれば、それが善であるがゆえに、行なうべきなのだ。損得勘定なしに善を行なってこそ、それは善行ということができる>そういうことを教えました。しかし、カントには悩みの種がありました。それは「根本悪」という問題です。人間は善をなすべきなのだけれど、人間のなかにはどうにもならない悪への傾向があるということです。聖書のことばでいえば、罪、原罪という問題です。そうであれば、いかにこうすべきだ、ああすべきだと立派な道徳を論じても、結局、絵に描いた餅にすぎません。人間の根本問題は、貧しさでも、病気でもなく、罪なのです。
 キリスト・イエスはこの罪からの救いをくださる唯一のお方なのです。神の前における私たちの罪の償いをし、私たちを罪の支配から解放し、神との交わりを与えてくださるのは、神ご自身が送ってくださったひとり子イエスさまによるしか道はありません。

 ペテロがこんなに堂々と大学者、権力者たちの顔を恐れずに語るので、祭司たちは「この男はいったい何者なのか」と驚きました。
 「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」
 今まで祭司たちはイエスのことは注目していたのですが、イエスの取り巻きの弟子たちのことなど、まったく眼中になかったのです。彼らはガリラヤの漁師であって、律法の教育を受けた連中でもない。イエス以外はみな雑魚だ思っていたので、イエスひとり亡き者にすればよいと考えていました。ところが、その雑魚であるはずのシモン・ペテロと称する男が、ユダヤ最高議会に引き出されると、議員たちの前でまったく臆した様子もなく堂々と論陣を張っているのです。彼らはかつてイエスに議論をふっかけてみたものの、毎回してやられて、すごすごと退散した苦い思い出を思い出して、この男たちはイエスの弟子たちなのだとわかってきたのです。
ペテロとヨハネには、たしかに立派な学者先生たちや雄弁な政治家たちに対抗するような学歴も学識もキャリアもなにもありません。けれども、ペテロとヨハネは神の御子イエスとともにいたのです。イエスと共にいるということは、恐るべき力です。「イエスといっしょにいる」ことの力、私たちはそれをどれほど自覚しているでしょうか。
「そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」とあります。事実を前にしては、学識も百万のご立派な理屈もひっこむのです。証というものの力です。律法についての観念的な議論をすれば、ペテロもヨハネも律法学者や祭司たちの敵ではなかったでしょう。しかし、ペテロとヨハネには生けるキリストがともについておられ、キリストが成された奇跡の事実がともなっていたのです。だって、彼らのそばには昨日まで美しの門の前でみじめに座っていた足の曲がった乞食がすっくと立ち上がってニコニコしているのですから。

3.伝道禁止命令と弟子団の反応

さて、サンヒドリンはペテロとヨハネにイエスの御名によって語ること、つまり伝道を禁じました。
「彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。彼らは言った。『あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。』 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。」(4:15−18)
 サンヒドリンとはユダヤ最高議会のことです。三権分立原則などない時代ですから、この最高議会は裁判所でもあり、行政機関でもあり、立法機関でもありました。ローマ帝国の属州というユダヤの側としては国家の最高機関です。その最高機関が、イエスの御名によって語ることを禁じたのです。今の私たちの立場で言えば、最高裁判所が、伝道禁止を命じたのです。
 では、ペテロとヨハネはどう答えたでしょうか。(4:19−20)
「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(4:19,20)
 聖書には上に立つ権威を重んじるべきことが教えられています。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」ローマ13:1
「 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」Ⅰペテロ2:13,14
 ですから、私たちは国家の権威を尊重すべきです。しかし、神様は国家権力者に無制限に権限を与えているわけではないのです。聖書を読めば、たとえ国家の権力者が法律をつくって命じても、これにしたがってはならない場合というのが二つあります。一つは偶像を礼拝しなさいという命令です。ダニエルはたとえ王に殺されそうになっても偶像を礼拝せず、むしろ殉教を選びました。もう一つは今日登場した使徒たちです。彼らはユダヤ最高議会からキリストの福音を伝えてはならないという命令を受けましたが、その命令に従わず、かえって、教会の人々と一緒にお祈りをして、聖霊に満たされて、さらに積極的に伝道を開始したのです。
  「 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。
  『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、
  もろもろの民はむなしいことを計るのか。
地の王たちは立ち上がり、
  指導者たちは、主とキリストに反抗して、
  一つに組んだ。』
事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(4:23−31)
ペテロとヨハネ、そして、彼らがもどって報告した初代キリスト教会の兄弟姉妹たちは、弾圧を受けたときにもバラバラになることなく、むしろともに祈りました。そして聖霊に満たされてさらに大胆に伝道したのです。

結論
1. たとえ最高裁法廷・国法が禁じたとしても、キリストの御名はのべつたえなければなりません。伝道は神の至上命令です。主イエスの御名以外には、私たち人類が救われる道は存在しません。主イエスの御名のほかに私たちが罪をゆるされ、地獄を免れ、まことの神にいたる道は存在しないのです。だからなんとしても、福音を伝える必要があるのです。
2. しかし、それは人間の勇気や人間の学識でできることではありません。過去の日本の教会では、当時随一の神学者が神社参拝は偶像礼拝ではないという理屈を立てて、逃げを図ってしまうこともあったのです。強制力を持つ権力者に抵抗して、偶像崇拝を拒否し、伝道をし続けるというのは、口で言うことは簡単でも実際に行なうことは決して簡単なことではありません。それは、ただ聖霊に満たされることによってのみ遂行可能なことです。
3. 今日は今年最初の聖餐式を行ないます。聖餐式の式文の中に、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに主の死を告げ知らせるのです。」とあります。本日の聖餐式においては、特に主イエスの十字架の死を告げ知らせるという神様からの至上命令のことを自覚しながら、聖餐にあずかりましょう。