苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

厩を産屋として

               ルカ2:1−7

               2009年12月20日 待降節第四主日礼拝 小海

1.皇帝アウグストの時代に
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」2:1−2

(1)歴史の事実
 皇帝アウグスト(Augustus63BC―14AD)は、初代ローマ皇帝です。ローマという国はもともとは紀元前509年建国以来、元老院議員たちが会議をして治める共和政でした。ローマがイタリア半島の小さな国であるうちは共和政で問題なかったのですが、版図が地中海世界に急速に広がるにつれて元老院でたくさんの議員がああだこうだと議論をしてことを決定するやり方では、もはや巨大化した帝国全体で頻々と起こる諸問題にすばやく対応できなくなりました。そこで、ユリウス・カエサル(100-44BC)は権限を自らに集中する国家の仕組みに切り替えようとしました。ですが、こうしたやり方はローマの共和政の伝統に反すると考える元老院の人々によって暗殺されてしまいました。
 このカエサルが自分の後継者にと考えていたのがオクタヴィアヌスでした。オクタヴィアヌスからすると、カエサルは大叔父にあたります。オクタヴィアヌスは天才政治家で元老院をたくみに説得しつつ、元老院の持っていた権限を抜き取って皇帝に集中していくのです。そうして、巨大化して機能しなくなっていた共和政ローマ帝政ローマに衣替えさせて、初代皇帝となりました。実権を奪われた元老院はふしぎなことにオクタビアヌスの功績をたたえて、彼にアウグストゥスすなわち尊厳ある者という称号を送りました。彼はほんとうに天才政治家だったのですね。
 この初代皇帝アウグストゥスオクタヴィアヌスはいくつもの政策をもって、ローマを安定と繁栄へと導きました。通貨制度の整備、常備軍の設置、ローマ市の整備、兵士の年金制度の設置といったことです。そういう新政策の一つが、国家財政の安定化のために徴税制度を整備するということがありました。徴税のためには、まず西はイスパニアから東はシリヤ、北はブリタニア、南は北アフリカと、地中海をぐるりと囲んでひろがる広大なローマ帝国の地方に徴税権をもつ総督を派遣し、それぞれの全住民の登録をして、納税台帳をつくる必要がありました。ここに記されるシリヤに派遣されたクレニオ(クレニウス)という人物も、そうした総督のひとりでした。クレニオは紀元前6年から紀元後9年までシリヤ・キリキヤ地方の総督を務めています。
この個所が私たちにはっきりと教えていることは、イエス・キリストというお方の誕生の出来事とその後の歩みは歴史上の事実であるということです。先週も申し上げましたが、聖書という書物は哲学書や思想書というよりも、歴史書なのです。生ける、歴史を支配なさる神が、この歴史をいかに導き、そして歴史の中に入り込んでこられて、何をなさったのかということが聖書には記されています。
多くの日本人にとって、宗教はたんなる気休めでしょう。気休めですから、宗教は事実である必要はないのです。たとえば、私の実家は回心以前浄土真宗門徒でしたが、浄土真宗では西方浄土阿弥陀様というお方がおられて、このお方の名を呼ぶ者は救われて極楽浄土に行けると教えます。しかし、実際に西へ西へと行けば、地球が丸いので東から戻ってくるだけの話です。でもだれも文句は言いません。もし文句を言ったら、かえって笑われてしまうでしょう。浄土教の教えは、阿弥陀が実在したらいいのになあという単なる願望がつくった作り話であって、事実ではないのです。
そういう意味で言えば、聖書に記録されたキリストの福音は宗教ではありません。聖書はあくまでも歴史の事実にこだわるのです。キリストにある救いとは気休めではなくて、事実なのです。キリストの救いは哲学でも宗教でもなく、ひとつの事実なのです。皇帝アウグストは紀元前63年から紀元後14年までローマを支配した初代皇帝アウグスト・オクタヴィアヌスであり、総督クレニオは彼がシリヤに派遣した人物であり、その時代に住民登録が行なわれたときに、イエスは、あの地中海世界の今日で言うイスラエルの地の首都エルサレムにほど近いベツレヘムという町で、ヨセフを養父としマリヤを母としてお生まれになった。これはみな時間と空間のなかで起こった歴史的事実です。

 さて、最高権力者アウグストの公邸の前は、朝から晩までひっきりなしに陳情する人々が皇帝アウグストとの謁見を望んで、行列を成していたことです。そのころ、ローマ大帝国の東の植民地の片隅でひとりの赤ん坊が生まれました。このお方は、全世界の全歴史の王の王となるべきお方でした。けれども、その誕生の夜に、祝いにやってきたのは数人の貧しい羊飼いたちだけでした。しかし、今日、皇帝アウグストの誕生を祝う人々が世界にいるでしょうか。「メリー・アウグスト!」などと挨拶をする人はひとりもいません。ところが、あの日、ベツレヘムの厩で生まれた幼子イエス・キリストの誕生を祝う「メリー・クリスマス」という賛美の声は世界中で鳴り響いています。不思議なことです。なぜでしょうか。それは、あの日お生まれになったみどり子こそが、万物の王であり歴史を支配する唯一の主であるからです。

2.ヨセフとマリヤ

「それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、」(2:3,4)
(1)ヨセフ・・・ダビデの家系
 皇帝の命令、シリヤ総督の命令によって、ローマ帝国の植民地とされていたイスラエルでも住民登録をすることになりました。その命令はイスラエルの北のはずれのナザレにも届きました。この命令を聞いて、ヨセフは困ったことになったと思ったでしょう。彼の先祖はダビデは紀元前約1000年にいた王で、その生誕の地はベツレヘムだったのです。ベツレヘムといえば、ナザレから直線距離で南に120キロメートルも行かねばなりません。男ひとりの旅ならば、どうということはないの距離でしたが、身重の妻マリヤを連れて行かねばなりませんから、容易なことではありません。車や電車があるわけではないのです。下手をすればマリヤに流産させてしまうことになりかねません。
マリヤとヨセフがそれぞれ御使いから受胎告知を受けてすでに10月目が迫り、もうマリヤの産み月が迫っています。住民登録にあたっては代理人が出頭することはゆるされなかったので、身重のマリヤを連れて行かねばなりません。マリヤのおなかに宿っているのは神の御子であるということを、このときすでにヨセフは啓示によって知らされていて、ヨセフの双肩には、神が遣わされた胎内の幼子を守るというとてつもなく重い責任がのせられていたのです。
 
 ところで、なぜヨセフとマリヤはベツレヘムへと向かったのでしょうか。ローマ皇帝と総督クレニオの命令があったからですね。では、なぜローマ皇帝と総督クレニオは、ちょうどこのもう少しでマリヤが出産というタイミングで命令を出したのでしょうか。アウグストとクレニオはまったく知らないことでしたが、メシヤはベツレヘムで生まれるということが、この出来事の七百年ほど前、預言者ミカをとおして神があらかじめ伝えておられたからです。
ベツレヘム・エフラテよ。
  あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
  あなたのうちから、わたしのために、
  イスラエルの支配者になる者が出る。
  その出ることは、昔から、
  永遠の昔からの定めである。」ミカ5:2
皇帝アウグスト、総督クレニオはメシヤがベツレヘムに生まれるという預言が成就するために、ちょうどこのタイミングで住民登録令を出したのでした。そうでなければ、イエスは北のガリラヤのナザレで生まれることになっていました。
 皇帝アウグストは当時の世界の支配者でした。けれども、皇帝アウグストは神のご計画と配剤の中で、キリストの誕生はベツレヘムであるという預言を成就するための道具として用いられたのです。皇帝アウグストの心、総督クレニオの心を動かして、まさにちょうどこのタイミングで住民登録令を発令させ、ベツレヘムにメシヤが生まれるということを成就させた方、イエス・キリストこそ万物の主であり歴史の主であるお方です。このお方が赤ん坊となって、世に降られたのです。これは歴史の事実です。

3.イエスの誕生は厩であった

 ところが、この世界の王、歴史の支配者であるお方が、地上でご自分が生まれるためにお選びになったのは、なんと馬小屋であり、選んだ寝台は飼い葉おけでした。
 ヨセフとマリヤがベツレヘムに到着したとき、ベツレヘムの宿屋という宿屋は大賑わいでした。ベツレヘムだけではなく、イスラエル中の宿屋は満杯でした。ローマ帝国という世界に住むすべての人々が、住民登録のため、いっせいにそれぞれの先祖の居住地に戻ったからです。ヨセフがマリヤの体調を気遣いながらゆっくりと歩いたせいでしょう、彼らがベツレヘムに到着したときには、もう宿屋は一杯でした。
 ヨセフが宿屋の戸をたたいても主人たちは、みな首を横に振りました。宿屋の主人たちはみな「お気の毒にね・・・」とかいいながらも、「この忙しいときに、今にも赤ん坊が生まれそうな夫婦ものなど迎えて面倒は抱え込みたくない」という顔をしていました。そんななかで、とにかく赤ん坊が生まれるための場所をということで、借りることができたのは、ロバや羊や牛がいる暗くて不潔な家畜小屋でした。
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:6,7)

 このようなわけで、主イエスはよりによって家畜小屋をご自分の産屋となさったのでした。その家畜小屋は、臭かったでしょうし、暗かったでしょう。これは決して偶然の出来事ではありません。主イエスベツレヘムでお生まれになるためには、ローマ皇帝の心までも主は導かれたのですから、当然、この家畜小屋で生まれることもまた、主のご計画の中にあったことです。主イエスが厩で生まれなければならなかったことには、少なくとも二つの目的と意味がありました。
 一つ目は、私たち人間の愛のない自己中心の罪を露わにすることです。ベツレヘムの宿屋はたしかに急な住民登録命令のために、どこもかしこも一杯だったというのは事実でしょう。けれども、今にも赤ちゃんが生まれそうだというのに、ほんとうに一部屋もあけてやれなかったでしょうか。受け入れてもらえなかったら、この若い夫婦と生まれてくる赤ん坊がどうなってしまうかということを想像しなかったでしょうか。もし、ヨセフが王侯や大富豪として、このベツレヘムを訪れたならば、どの宿屋もスイートルームを提供したにちがいないのです。御子イエスが厩に生まれなければならなかったという、この出来事に宿屋の主人たちの罪が露わにされています。
 罪とはなんでしょうか。罪とは、神の戒めに背くことです。聖書には神の戒めが多く記されていますが、それらはふたつの戒めに要約されています。「『 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:30,31)神を愛することと、隣人を愛することは結びついていて、切り離すことはできません。もし宿屋の主人が、「もし自分がこの若い夫婦の立場だったら・・・」とほんきで考えたら、宿屋の主人はなんとかして産屋となるべき部屋を用意したでしょうが、そうはしなかったのでした。
 しかし、つくづく自分を振り返って思うのですが、私たちはこれを人ごと片付けることができるでしょうか。私たちには宿屋の主人を指弾する資格があるでしょうか。私たちもあの宿屋の主人たちと同じことをしているではありませんか。この寒空の下で、突然派遣切りをされて、住む家もなく食べる物もなく、震えている人たちがいるのです。長野県は日本で三番目に派遣切りをされた人々が多い県です。F兄がこの地域、この教会で提供されたお米やキャベツを届ける奉仕をしてくださっていますが、じゃあ、私たちはそういう人たちのことを自分を愛するように愛しているのかと神様に問われたら、恥ずかしくなります。残念ながら、ほとんど無関心でいるのです。愛の反対は憎しみではなく、無関心ですとマザー・テレサは言いました。
 私たちは人生のなかでいろんな人に出会います。そのとき、かかわれば自分にとって得な人との出会いは歓迎するでしょう。けれども、その人とかかわるとなんの得にもならない、むしろ損をするような弱い立場の人との出会いをいとわしいと思いがちです。日ごろは親切そうに振舞って、自分でも結構良い部類の人間ではないかと自負していたりするのですが、いざとなるとわたしたちの内側に巣食っているエゴイズム、冷淡さが正体を現わしてしまいます。私たちの愛の欠落した罪深い本性は、小さな者、弱い人との出会いによって、神様の前にあきらかにされてしまうものなのです。
終りの日、最後の審判のとき、裁き主はおっしゃいます。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』またおっしゃいます。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 ご自身の産屋として不潔で冷たい家畜小屋を選ばれた出来事を通して、主が私たちに教えていることの二つ目は、たとえ私たちが暗くて冷たくて罪に満ちた者であっても、主イエスは救い主として私たちの人生を訪ねてくださるのだということです。
 イエスは当時の道学者のような人々に非難されたことがあります。彼らはイエスの弟子に言いました。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」すると、イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われのです。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
 私は立派で非の打ち所のない人間ですという人に、イエス様は用事はありません。むしろ、「私は、あのベツレヘムの宿屋と同じように冷淡な愛の欠けた人間です。こんな者のところにイエス様はきてくださるのでしょうか。」と思っているならば、イエス様はそのようなあなたの友となってくださるのです。主イエスはあなたを訪ねてくださって、あなたとともに生きようとおっしゃってくださいます。一見、何の問題も無く暮らしているようでも、実はあなたの胸の内側は、冷たい風が吹いているのではないでしょうか。一見、お友だちと楽しげに話して発散しているようでも、実は、独りぼっちになると、こころのうちは薄暗くて、むなしいのではないでしょうか。あなたの胸のうちにはたしかな希望があるでしょうか。ある不安におののいているのではないでしょうか。あるいは、あなたの心のうちには誰にも決していうことができない罪の秘密が隠されているのではないでしょうか。私たちの内側は、不潔で、暗くて、冷たい家畜小屋のようなものです。 こんな家畜小屋のような自分がどうしてきよい神様の御子をお迎えすることができるだろうと思うでしょうか。たしかにそうなのです。けれど、自分ではどうしようもない罪の問題を解決するためにこそ、神様の御子イエス様は来てくださいました。もしあなたが、その心の扉をひらくなら、主はあなたのところに来てくださいます。そして、あなたの内側をきよめて明るい光をともしてくださいます。
黙示録「 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」