苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「ある」ということ

「哲学とはなんですか?」という質問を海の向こうからいただいたので、とりあえず、次のように答えてみました。

1.哲学とは問いを立てることです。
 何にかんする問いかというと、個々の事物でなく、事物一般にかんする問いです。哲学者はまず「ある」ということはどういうことかを問いました。事物一般に共通するのは「ある」ことですから。これを存在論といいます。
 また、近代になって哲学者は「ある」ことを知るのは自分であるから、「知る」ことがよくわからないと「ある」ことだってわからないのではないかと考えるようになりました。知る者によって「ある」ことの捕らえ方も異なるでしょう。「知」るということはどんなふうに成り立つのか?これが認識論。
 その後、現代になって改めて「ある」ことを問う哲学が出現しました。実存哲学です。


2.なぜ哲学者は、個々の事物でなく、事物一般に関することを問うのか?
 それは、哲学者が無精者だからでしょう。その根本的なことがわかれば、マスターキーのように、どの謎のドアも開くことができるでしょう。便利ですよね。

3.「ある」ことについて問うた結果、不思議なことが発見されます。
 なぜ、この椅子は椅子であるといえるのか。あれも椅子といえるのか。ふたつは別物なのに。なぜ、私は、彼とも、彼女とも違っているけれど、彼も、彼女も私も人間といえるのか? また逆に、彼も私も彼女も人間なのに、彼と私と彼女はちがうのか。私が私であるのはなぜなのか?ということも不思議です。
 そこで、プラトンは、椅子とか人間というデザイン(普遍)が実在して、そのデザインが不完全ながらも個々のものとしてこの世界に現れているのだろうと考えました。
 でも、プラトンの弟子アリストテレスは、それは変な考え方だよ、そうじゃなくて、実際にあるのは個々のものであって、似たものに共通の名前をつけただけじゃないのという考え方をしました。

4.この問いは、言い換えると、一と多のどちらが優先するのかという問題です。一が優先するとするのが普遍実在論であり、多が優先するというのが名目論ということになります。でも、どちらの立場にも弱点があるのです。多様を強調するとバラバラで無意味になってしまうし、一を強調すると等質の無意味に陥ってしまいます。たとえば、社会でいえば多様性ばかりだとバラバラの個人主義に陥ってしまいますし、統一性ばかりだと均質にされた全体主義に陥って、これはどちらも快適ではないでしょう。料理でも詩でも音楽でも説教でも自動車でもありとあらゆる「ある」ものは「一であってかつ多である」ことによって、意味ある存在なのです。

5.第一コリント12章のからだのように、一つのからだは多様な器官から成っています。そのありようというのは、これを造られた三位一体の神のありようと関係していると聖書は記しています。ただ神は自らあるお方であり、他方は神にあらせられているものであるという点で質的に異なりますが。これは聖書独特の主張です。 「さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(12:4-6)

6.また、ギリシャの哲学者たちは時間というものを主題的には考えなかったようです。時間はグルグル回っていると思っていたからです。聖書には、この一つで多様な世界に、いまひとつ「時間」という要素が加わるということが述べられ、その始まりと終わりがある時間のなかで、一であり多様な世界の歩みが展開されていきます。そういう歴史意識、時ということが哲学の課題となったのは、聖書を学んだ人たちによってでした。