苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

庭の仕事

 きょうは神学校の授業が休みになって時間ができたので、妻といっしょに教会の庭の側溝をさらった。土地が少々側溝より高くなっているという造成なので、どうしても泥がたまってしまう。枡の重いふたを取って、ジョレンとシャベルで葉っぱと泥の混じったのを出して、一輪車に乗せては畑に運ぶ。泥のなかから丸々太ったミミズがにょろりと姿を見せる。腐葉土になって肥えているしるしである。
 泥を上げても上げても雨が降ればまたたまるわけだが、妻はこういう仕事を忍耐強くすることができる。家庭の主婦の仕事というのは、大方がこのようなエントロピー増大の法則に対する抵抗であり、夫も子どもたちもたいていエントロピー増大に加担しているわけである。つくづく主婦は偉いと思う。私はこういう仕事にはすぐ飽きてしまい、こつこつときちんとできないたちで、自分の弱点だなあと思いながら作業をする。
 そういえば、土浦での学生時代、副牧師だった菊池先生といっしょに教会の駐車場の草取りをしたことがあった。駐車場を半分こにして草を取ったのだが、私はすぐ終わってあちこち取り残しだらけで、菊池先生は端から一本の取り残しもなく見事なものだった。私はもう一度、さらにもう一度取り直す始末であった。きちんと網羅できないというのは、生来の欠陥であって、数学でいうと数列とか順列組み合わせが苦手だったし、将棋をすると必ず見落としがあるし、週報を作っても見落としがある。自動車免許の適性テストの結果は、優れているのは決断力であり、弱点は注意力だった。注意散漫で決断したら、あぶないですよね。
 こういう欠けある人間を補うために、神様はふさわしい妻を恵んでくださった。ロシア正教の高橋保行司祭が、「妻は夫の助け手である。ところで助けられる側と助ける側と、どちらが強いかといえば、いうまでもなく助ける側である。」とおもしろいことを言っていた。けれども最近は、なんだか妻も私に似て、ものごとをちゃんと網羅することができなくなってきたそうである。
 
小海小学校の近所の風景