使徒2:41−47
2009年10月11日 小海主日礼拝
キリスト教会2000年の歴史の中には華々しく前進した時代があり、また、沈滞した時代があり、また、罪を犯した時代もあります。さまざまなことがあるたびに、内部から改革が起こって来たのですが、そういう自己改革において教会は原典である福音書、初代キリスト教会の姿を振り返りました。自分が何者であるかがわからなくなったときには、原点に返るということでしょう。そもそもキリスト教会とは何なのかということに目をやって思い巡らして、本来の姿を取り戻すことです。
1.初代教会のしるし
教会を表現することばはいくつもあります。「神の御住まい」「キリストのからだ」「神の民」など。その中でも旧約聖書、新約聖書を通じて広く用いられているのは「神の民」という呼び方です。「聖なる公同の教会」というときには、この旧新約両時代を超え、民族国語を超えた神の民を意味しています。旧約聖書のノアの家族、アブラハム一族、イスラエル民族それぞれが神の民であり、教会でした。
新約の時代になると、キリストが来られて罪の贖いを成し遂げて復活し、天に戻ってから聖霊を注がれました。この聖霊を注がれて刷新された神の民は、世界のあらゆる民族・国語に福音宣教するようになり今日にいたっています。
その始まりにおいて、初代教会はどんな営みをしていたでしょうか?
「 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」使徒2:41-42
(1)共同体を形成すること
バプテスマ、使徒の教え(新約聖書)、交わり、パン裂き、祈りと、初代教会では、以上5つの営みがされていたことに気づきますが、まずその前提として認識すべきことは、キリスト信仰とは単独で洞穴にでもはいったり、禅寺にこもったり、書斎で研究したりすることによって営まれるものではなく、ともに礼拝し、ともに祈り、ともに助け合う信仰共同体を築くものなのだという事実です。米国社会では、信仰を持つということはイコール教会に加わるということだそうです。けれども、日本では伝統的に共同体をつくる信仰というものはありませんでした。
しかし、聖書は、キリスト教信仰は共同体的信仰・教会的信仰なのだと教えているのです。神は三位一体の愛の神でいらっしゃるからです。そしてキリストは、神を愛すると同時に、主にある兄弟姉妹を愛することの大切さを説かれたからです。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛し兄弟姉妹を愛するというのは、抽象的なことではなく、具体的なことです。ともに生きるなかで、私たちは神の愛を体験し、実践することを学ぶのです。
(2)五つの営み
そしてそれは、「バプテスマ、使徒の教え(新約聖書)、交わり、パン裂き(聖餐)、祈り」という一つ一つの具体的な営みをたいせつにすることによって、実践され、育っていくものです。
16世紀にドイツで宗教改革が起こって、当時のローマ教会からプロテスタント教会が別れ出ることになってしまいました。しかし、改革者たちの恐れは、自分たちは分派の罪を犯してしまったのではないかということでした。教会を分裂させるということ自体、大きな罪なのです。そこで、彼らは真の教会のしるしとは何かということを聖書のなかに求めました。最小限、これだけは備えていなければ、それはもはや教会ではないという条件を探したのです。その結果、一致を見たのは、真の教会の最小限のしるしは二つあって、一つはバプテスマと聖餐式という聖礼典が正しく行なわれていること。もう一つは、正しく聖書の福音が語られていることであるということがはっきりとしました。そして、当時のローマ教会には、この二つのしるしが備わっていなかったから、それは真の教会ではなかったのだから、改革者が行なったことは分派ではなくて、真の教会の復興だったのだという結論を得るにいたったのでした。
しかし、注意したいのですが、真の教会のしるし「聖礼典と正しい説教」は、それがなければ教会が教会でなくなるという最小限のものだったということです。必要条件でしたが、教会の十分条件ではなかったのです。このあと17世紀ドイツの教会は聖礼典と正しい教えの整理、体系化にエネルギーを集中していきますが、段々形式主義的になっていきました。講壇から語られる説教は、大学の講義みたいになってしまったそうです。そんなことがあって、18世紀になると、ドイツの教会の兄弟姉妹たちは、主の日の午後や、ウィークデーの夕方に自分たちの家々でも小さな集会をひらいて、ともに交わり、ともに祈り、ともにみことばを生活に適用するように味わおうということになりました。使徒の働きに見える「バプテスマ、使徒の教え(新約聖書)、交わり、パン裂き(聖餐)、祈り」がここに回復したと見ることができるでしょう。これは敬虔主義運動と呼ばれます。
敬虔主義運動に加わった兄弟姉妹たちは、イエス様にある救いの素晴らしさを体験するようになりました。体験したら、伝道したくなりましたから、つぎつぎにあちこちで家庭集会が開かれるようになりました。そして国外宣教もしようということになりまして、世界中に宣教師を派遣するようにもなったのです。18世紀、19世紀の敬虔主義運動の結果、世界中にイエス・キリストの福音が伝わるようになりました。日本にキリストの福音を伝えたのも、敬虔主義運動の流れなのです。教会は、やっぱり聖書にあるとおり、「バプテスマ、使徒の教え(新約聖書)、交わり、パン裂き(聖餐)、祈り」を実践することが大事なんですね。
私たち小海キリスト教会の歩みにおいて、この中でどれかおろそかにされていることはないでしょうか。反省してみまして、「ともに祈る」という点で、このところ私たちは不十分なのではないかと思います。水曜日の朝と夕方に祈り会をしていますが、参加できる方たちは全体からみると数分の一にすぎません。この教会の場合、みなさんだいぶ遠い地域から車で集まってきていますから、無理があるという方も多いでしょうから、なんとか工夫をして、水曜日に集れない方たちも重荷を分かち合って祈りあう場をつくってはどうだろうかと思います。先日、徳丸町キリスト教会に行きましたら、そこでは月に一度だと思いますが、礼拝後、グループに分かれて祈っていました。今後、相談してともに祈って重荷を分かち合うときを作ってまいりましょう。
2.すばらしい結果
「バプテスマ、みことば、交わり、パン裂き、祈り」をたいせつにして歩む教会に、神さまが素晴らしいことをしてくださったということが三つ出てきます。
(1)神への畏れ
「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。」使徒2:43
一つ目に付くのは、「不思議としるし」です。おもに癒しのわざではないかと思われますが、イエス様がなさったような奇跡が、使徒たちのはたらきの起こりました。こういう奇跡は、聖書を読むと、神の民の歴史の危機的な時期に特に集中して起きています。一つは出エジプトのときです。それから士師、サムエル、サウル、ダビデと続く王の時代は長く奇跡は起こっておらず、王国がひどく乱れてきたころエリヤ、エリシャの時代。そして、イエス様が来られて初代教会が始まった時代です。
こういうことを見ると、43節で注目すべきは、奇跡よりもむしろ、「一同の心に恐れが生じた」ということのほうだとわかります。神への恐れこそ、時代を超えて神の民にとって重要なことなのです。それは、恐怖というより神様に対する健全な畏れです。教会が単なる仲良しの人間たちの都合のためのサークルであってはなりません。そうでなく、聖なる神の臨在をいつも仰ぐことがたいせつです。
(2)コイノニア
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」使徒2:44-46
これは時に「原始共産制」であると言われたりしますが、どうもそういうことでもないようです。共産制であれば、私有財産を否定するわけですから、だれかが教会のメンバーになろうとするときに、全財産を寄付することが入会条件であるということになるはずですが、そういうことをしていたのではありません。45節を見ると、教会において必要が生じた折々に、お金のある人たちが資産や持ち物を売ってはみなに分配していたというのです。入会時に税財産を、というのではなくて、教会の歩みのなかで必要が生じるごとに、それぞれの祈りと感謝と献身の表現として自由なささげものがされて、分配されたということです。
初代キリスト教会は、共産主義でもなければ、資本主義でもありませんでした。それぞれが、神様から託された財産があることは認めていましたが、その託されたものをそれぞれが自分のものだと握り締めることをしないで、兄弟愛をもって分かち合ったのです。
それがコイノニアでした。コイノニアとは共有・分かち合いということです。コイノニアは、富だけではなく、時と場所を共有し、一つのパンを分かち合い、重荷を分かち合い、喜びを分かち合うということだったのです。「バプテスマ、みことば、交わり、パン裂き、祈り」をしているなかで、内側から主に対する愛、兄弟姉妹に対する愛が湧きあがってきた結果、自然とそういう分かち合いをするようになったのでした。
(3)教会は氷山のようなもの
「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒2:47
その結果、どういうことが起こったでしょう。すばらしいことに、主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。
周囲の人々は思ったのです。「みんな殺伐としていて、自分のこと、自分の家族のことしか考えていない、せちがらい世間であるのに、あのクリスチャンたちはなんだか楽しそうで愛し合っていてすばらしいなあ」と。「すべての民」が好意を持ったとあります。「すべての民」が好意を持ったから、すべての人が仲間に加わったわけではなく、そういう中から一部の人たちが教会に加わってきたのですが、こういう好意をもつ層が社会の中にふえてくるということは、イエス様に人々が近づきやすくなるためには、とてもたいせつなことです。好意者層の拡大ということです。
教会を一つの氷山にたとえた人がいます。「氷山の一角」というように、氷山は海面上に現われているのはほんの一部です。そのほんの一部を支えているのは、何かといえば、海面下の目に見えない部分です。教会に当てはめると、私たちの目に見えるのは教会員・家庭集会に集っている方たちだけですが、実は、この地域には「好意者層」つまりいわゆるキリスト教シンパ、教会シンパという人たちがいるのだということです。そういう層が増えてくると、時々おなまえも言わずに電話で相談されてくるような方たちも、勇気がでてイエス様のもとに来ることができるのです。
結び
あのペンテコステのリバイバルに始まったエルサレムのキリスト教会は、まぶしいほど輝いていますね。その輝きは、神への聖なる畏れ、キリストにある喜び、主にある兄弟姉妹たちへの愛の輝きでした。時代は二千年もへだたっていても、この小海キリスト教会もまた神様の愛を受けた群れです。
「バプテスマ、みことば、交わり、パン裂き、祈り」という五つの営みをたいせつにし、神を畏れ、喜びも悲しみも互いに愛し合う群れとなっていくならば、主はかならずこの地域のさらに多くの方たちを私たちの仲間に加えてくださいます。